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タイトル 日 時
大伽耶を作った偉大な王「卑弥呼」 韓国古代(2) 
大伽耶を作った偉大な王「卑弥呼」 韓国古代(2)  倭国は後漢の146年から189年にかけて国が乱れてお互いに攻め合い何年も主がいなかったとされる。出雲で国譲りが行われ出雲国の役人や軍人などが出身地の高霊に戻された。出雲の管理は天照神の子ども天穂日(あめのほひ)に任された。 ...続きを見る

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2017/07/15 17:08
大伽耶の故地(高霊)を訪問  韓国の古代(1)  2017年7月15日     
大伽耶の故地(高霊)を訪問  韓国の古代(1)  2017年7月15日      韓国の金海と高霊を古代にロマンを持つ友人2人と一緒に訪問した。北朝鮮のミサイルの打ち上げや大統領選が終わったばかりの不安定な韓国の状況に反対する人たちもいたが思い切って2泊3日の旅行を行い大きい成果を得て帰りました。 高霊は大伽耶の中心だった町、大きな都市大邱の近くですが観光地としての知名度はまだなくゆったり時間を過ごせました。案内役は旅行社から派遣された女性の朴さん、日本語の通訳は問題なく今回のために相当勉強したらしく大きなノートにメモ一杯ででした。図―1探し求めていた高霊池山洞第44号墳 ... ...続きを見る

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2017/07/15 16:13
古神道はオオヤマツミ神から始まった
古神道はオオヤマツミ神から始まった 日本の神道はアジアの宗教の中でも独特の存在で中国にも朝鮮半島にもその面影が残っていない。縄文時代からこの宗教があったかというと太陽信仰やストーンサークルのような形は認められているが山岳宗教などの痕跡は認められていない。筆者は天照大御神を追跡している中で皇后の兄がオオヤマツミで彼が日本の古神道である自然崇拝の宗教を作り出した神ではないかと信じるようになった。三輪神社  ...続きを見る

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2016/11/15 17:32
滋賀に大型建物跡 −邪馬台国と同時代か?
滋賀に大型建物跡 −邪馬台国と同時代か? 2016年10月19日 日経新聞 ...続きを見る

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2016/10/18 21:03
天照神は男だった
天照神は男だった  「三国遺事」の駕洛(から)国記を読んでいて初代首露(しゅろ)王の即位AD42年から199年まで王位にあり157年間生きたと記録されていてとても信用できる記録ではないとみていた。駕洛国自体が途中で消滅してしまったので正確なものが残るはずが無いと諦めていた。 ところが逆にこの数字に込められた何かのメツセージがあるのではないかと考え種々検討した結果首露王そのものが「天照大御神」であることがほぼ証明できた。首露王陵(天照大神の墳墓) ...続きを見る

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2016/10/16 10:42
日本通史 「倭国から日本が誕生」するまで    
日本通史 「倭国から日本が誕生」するまで     日本は最初から倭国であって、軍事強国で朝鮮半島まで遠征して任那国を支配した。「大和朝廷が朝鮮半島を支配した」という日本建国史(日本書紀)がまかり通っている。内外の文献や各地から発掘される遺品類からは全く別の世界が現れている。それらを図表で紹介し簡単な解説を加えてみた。 1.倭国の誕生   倭人は半島にも列島にもいた 図―1 AD1〜2世紀の姿 赤字は倭国全体の宗主国 ...続きを見る

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2016/09/12 23:45
武内宿祢とヤマトタケル
武内宿祢とヤマトタケル 武内宿祢は200歳近く生きていたとか実在の人間では無かった等の意見が多く謎の人物とされている。ヤマトタケルも30歳そこそこで亡くなってしまうという悲劇の主人公である。私はこれら日本書紀が分からないように様々な手段を駆使して隠していることを次々暴いて皆様に本当の姿を伝えようと図を入れて解説しました。 ...続きを見る

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2016/09/09 21:57
乙巳の変と大化の改新
乙巳の変と大化の改新 古代史の焦点の一つ入鹿が殺害された事件中大兄や藤原鎌足は全く関係していなかったことを明らかにしました。実力者兄の天武天皇がい座っていたため天智が皇太子と言われて即位するのに23年間もかかってしまいしかも早死にしてしまったので日本書紀がどのように書いても存在感の薄い天皇であった。 ...続きを見る

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2016/09/03 10:17
天智と天武はどちらが兄か
天智と天武はどちらが兄か 天智と天武天皇の関係は兄が天智であり天武は弟であることが日本史の常識になっているが異論がたくさん発表されていて天武が4歳上の兄であり父は舒明天皇でない事が有力になっている。研究者も多いが「天武・天智異父兄弟考」を提案されている大和岩雄氏の説には賛同するところが大きい。彼の説をキーにして解説を試みる。 系図―1 欽明天皇から天智・天武までの関係者(赤字は欽明系の血筋) クリックで図が拡大 ...続きを見る

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2016/08/17 13:03
欽明朝から大化の改新に至る流れ
欽明朝から大化の改新に至る流れ 大和王朝の6世紀から7世紀にかけては激動の時代であり朝鮮半島も中国の随・唐の誕生による影響や高句麗・百済の衰退、その結果中央から遠く離れた小国新羅が半島を統一するできる事など大きな動きがあった。欽明王朝が誕生してから大化の改新が行われる7世紀中ごろに至る大きな事件を取り上げて豪族蘇我・物部氏と天皇家がどのように行動していたのかをまとめる。 欽明朝が大和王朝の黄金期をつくり上げた事と欽明一家が特別な存在であることは薄々皆さんが気づいていて文献も多数出版されている。それは倭国本宗家が大和にやってき... ...続きを見る

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2016/08/12 14:20
渡来人漢人とはどんな人達か
秦氏と同時期に来日したと言われている渡来人漢人(あやびと)とはどのような人々か解析した。彼らについて古代史の書物では様々な解説が行われているが、かなり誤った情報が伝わっていることが分かった。秦氏と共にやってきた渡来人で中国、後漢王朝「霊帝」の末裔だと記紀には説明されているがどうもそのような素性の人達では無かった。 ...続きを見る

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2016/07/01 11:09
筑紫君磐井の戦いは無かった
筑紫君磐井の戦いは無かった 530年頃九州筑紫の君が反乱を起こしそれを継体天皇の将軍物部アラカイを派遣して破ったとの話が日本書紀に載っているがこの戦いは無かった。磐井軍が大和の兵を見て逃亡してしまった。軍派遣の目的は大和から兵を引っ張り出して空白状態を作ることにあった。 ...続きを見る

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2016/06/13 11:12
伽耶(任那)王が欽明天皇になるまで
伽耶(任那)王が欽明天皇になるまで 朝鮮半島にあった伽耶連合国の盟主、金官伽耶国(天照の国)の最後の王が経済的な活動ですばらしい国に作り上げた継体天皇を如何にして殺害し、大和の大天皇「欽明」が出現したかその詳細を報告する。 日本書紀によると金官伽耶国(加羅国)の最後の王、金仇衡=任那王アラシトが529年(継体23年)日本に来て調査し、色々な関係者と協議して帰った。彼の名前は己能未多干岐(このまたかんき)と記されている。3年後の532年に加羅国は仇衡王(三国史記では仇亥王)を新羅に派遣して法興王に降伏している。金官伽耶国が朝鮮半島... ...続きを見る

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2016/06/10 13:44
日本が倭国になった時・・欽明天皇の誕生
倭国とは誰でも日本のことと考えるが古代(6世紀以前)は朝鮮半島にあった小国のこと。倭人は半島と日本に住んでいたが豊かな日本列島が作られて移住する人が増えてきて本体が日本に移動した。半島にあった宗主国「金官伽耶国」の最後の王、金仇衡が日本に渡ってきたからである。彼が欽明天皇で蘇我稲目のバックアップを得て継体王朝をクーデターで破壊して飛鳥時代につながる大和王朝を作り上げた。その時から日本が倭国本体になったのである。 ...続きを見る

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2016/06/09 12:25
倭の五王は天皇でなかった
倭の五王が中国に何を求めたか(改) 五王の話題になると讃、珍・・など使節を送った王は誰かという話に行ってしまい使節が何をしようとしたかが抜け落ちている。中国王朝の爵位については大きく分類すると宗家やそれに準じる重臣の位階と武将の位階を示す官位の2種類があった。倭の五王が求めたのは国王の認定でなく武将の位であった。 ...続きを見る

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2016/03/24 12:31
古代天皇の在位期間はどの位か
古代天皇の在位期間はどの位か 古代の王位継承期間 日本の歴史書は意図的に西暦の年数との対応関係が成立しないように・・天皇何年の表記になっている。このため「いつ」起きた事件なのかさっぱり見当が付かず全て神話の世界に放り込まれている。王位継承は前王が逝去した後次の関係者に引き継がれるとの前提で、王の年代がいつなのかを推定する原則を考えた。 親から子に引き継がれるのが一般的であるがその新王が病気や事故、戦争などで急逝した場合、継承は兄弟とか親族に移されることが多い。このような理由で交代した王も同一世代に属していると考えると世代... ...続きを見る

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2016/03/18 18:06
神功皇后の存在意義
日本書紀、古事記共に神功編のように大々的に取り扱われた皇后はいない。彼女はなぜこれほど特別扱いされたかを具体的な記述の中から考察してみた。日本書紀の卷第九編「神功皇后 気長足姫尊」はどんな目的で作られたものか。簡単にまとめると 「日本で最初にできた国は倭人が作った邪馬台国でありその女王卑弥呼は私、気長足姫(息長帯媛)であり神功皇后である。」 ...続きを見る

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2016/03/12 11:55
上野国立博物館の過ごし方
上野国立博物館の過ごし方 上野の国立博物館の会議室で午後から講演会があるので10時過ぎから展示を見てゆっくりと館内を見学しました。館内から入口を見るとこんな風景。 70歳以上の人は常設館に限っては無料で自由に拝観できる・・・友人に話したら皆さんご存知なかった・・私はこれを利用して何回か静かな雰囲気の中見て回ることを楽しみにしている。 八女市岩土山古墳の石人。阿蘇山の溶結凝灰岩で作られた九州独自の石像で熊本近辺に30余例があるという。 私の今回の見学で発見したのは「東南アジア銘文刀剣の世界」と称する場所に展示されてい... ...続きを見る

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2016/03/10 11:00
伽耶解体のプロセス
伽耶解体のプロセス 朝鮮半島の南部に伽耶(加羅)諸国として存在し朝鮮半島の四ケ国(高句麗・百済・新羅・加羅)として活動していた国が滅亡して無くなってしまった。多くの歴史家は新羅に戦争で負けて消滅してしまったと解釈している。しかし実態を良く掘り下げていくと伽耶国に生活していた倭人たちはその当時のベストな選択ををして夢の国「日本列島」に移転してしまった。 倭人だけでなく、巡りあわせで同じ運命にあった百済の人々を伴って移動し高度成長期の古墳時代から奈良時代を築いた原動力になった。この後高句麗や新羅も政変を繰り返したので... ...続きを見る

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2016/02/26 21:26
倭国軍の戦い(2)
倭国軍の戦い(2) 次の倭国軍の戦いを見て行くと倭国が日本のことで倭軍が日本から船で派遣された軍隊であると解釈することが如何に間違った解釈であるかがご理解いただけると思う。 ...続きを見る

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2016/01/19 10:55
倭国軍の戦い(1)
倭国軍の戦い(1) 倭国軍が朝鮮半島でどんな戦いを演じたのかを「三国史記」記載の資料から取り出して整理してみた。隣り合った新羅との紛争が長期間続いている姿が見える。最初は金官伽耶との境界紛争であり4世紀ごろからは直接首都である金城への攻撃であった。こんな大規模な戦いが日本から送った軍隊でやったとは考えられない。倭国軍の戦いを2回に分けて記載します。 ...続きを見る

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2016/01/19 10:11
「倭王武」とはどこの誰か
「倭王武」とはどこの誰か −倭国全盛時代を築いた武王−とは? 倭王の活躍を伝える中国の資料に413年に始まる倭王「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」の五王の使節が南朝の宋に朝貢していたことが「宋書」に記録されている。現在の一般常識では日本の天皇に当てはめて大和から派遣されたと解釈されているがこれは無理筋である。 ...続きを見る

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2016/01/16 17:39
カルデラ噴火の十和田
カルデラ噴火の十和田 十和田湖はカルデラ噴火でできた「噴火口」である。北東北歴史懇話会主催の十和田噴火1100年シンポジウムの主題は十和田噴火の噴火と発生した大量の火砕流が火山泥流や土石流の形で周辺に流れ出したこと。この最後の噴火が西暦915年(平安時代)にあり秋田側の米代川に沿って日本海方面に流れ出した土砂の中から家屋の木材を初め、出土品が大量に見つかりイタリアのポンペイ火山を想起できるようなことが北秋田で起きたことの報告だった。1100年前のものがそのまま見つかり当時の庶民の生活を知る上で貴重な発見になっている。... ...続きを見る

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2016/01/03 22:28
広開土王碑の倭について
広開土王碑に書いてある文章の「倭」はほとんどの人が日本から軍隊が朝鮮半島に出陣して高句麗の王に散々破られたと信じている。碑を良く検討して見れば半島に存在していた倭国(大伽耶)の軍隊であることが分かって頂けると思う。欠けて読めない文字についても正解と思われる漢字を提案した。 ...続きを見る

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2015/12/04 23:01
石上神宮に伝わる七支刀
石上神宮に伝わる七支刀 石上神社に伝わる七支刀(シチシトウ)も新しい視点で解釈すると別の世界が広がってくる。 この刀は鉄製で、身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした剣。全長74.8cmで、下から約3分の1のところで折損している。 剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされており、その解読が明治以降続けられ、統一的な解釈は未だない。銘文 ...続きを見る

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2015/12/03 22:06
まぼろしの安曇湖
まぼろしの安曇湖 私は現在の安曇野市に7世紀以前には諏訪湖と同規模の大きさの湖水が存在していたと確信している。文献や安曇野や生坂村に伝わる説話でも実在は確信できるが、今回現地を探索してもっと何か情報を得ようと努力してみた。図1.安曇湖が存在したと想定される地域の現在の姿である。右が北、上方は北アルプスの山岳地帯、下方も山で囲まれている。糸魚川から静岡に抜ける断層が通っている地溝帯で湖は大町市と松本市の間である。北アルプスに降った雨や雪が多数の川になって流れ下るが一度伏流水となって消えてしまった水も鉢の底に相当する... ...続きを見る

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2015/11/01 20:00
釈迦堂博物館に見る縄文人の生活
釈迦堂博物館に見る縄文人の生活 中央高速道の釈迦道PAから数分の所に付近で発掘された縄文時代の遺跡展示品が見られます。甲府盆地の東部、御坂山系から流れ出す京戸川によって形成された扇状地で1.5万年前から人々の生活が始まっていて釈迦堂遺跡はその中心地の一つだった。 ...続きを見る

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2015/10/25 13:28
蘇我氏の祖はスサノオ神(改)
蘇我氏の祖はスサノオ神(改) 同じタイトルのブログを2013年10月に作っていたがその後の解明でかなり誤った部分が多かったので改訂します。邪馬台国が九州のどこかと推定したり、ツヌガアラシトが武内宿祢だったりと思い込んでしまったことなど。 ...続きを見る

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2015/10/22 20:07
狗奴国の卑弥弓呼
狗奴国の卑弥弓呼 魏志倭人伝に卑弥呼が狗奴国の王卑弥弓呼との間に争いが絶えず帯方郡の魏の出先にその戦況を報告し、仲裁をしてくれることをお願いしている。 この狗奴国は邪馬台国の南にあり、この国を巡って色々な人が候補地を推挙して、だから邪馬台国はここだ、という論者が多い。 私は卑弥呼が周辺の小国をまとめて邪馬台国の骨格を整えているのに彼女に従わず争いごとを繰り返す王は近隣で相当力を持った国でなければならない。その国はどこか推定した結果「阿羅伽耶国」が最も相応しいと考えた。 図は倭国が半島に誕生してその伽耶連合国が... ...続きを見る

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2015/10/12 22:52
仲哀天皇の正体
仲哀天皇の正体 仲哀天皇については架空の人物でありその存在が怪しいとする先生方や読者が多い。しかし私の調査では日本国を作った最初の人物はこの人以外には見いだせない。記紀の編集者は見事な形でその存在を隠すのに成功している。 仲哀天皇は公式な天皇系図には次のように表現されている。 景行天皇12 −日本武尊(成務天皇13)−仲哀天皇14 −応神天皇15 実際は景行天皇の子どもであり青年時代はタケル(日本とか倭の姓)であり、13代成務天皇を短期間経過した後14代仲哀天皇になっている。この間タケル(武・建)総理大臣... ...続きを見る

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2015/09/18 10:17
魏志倭人伝の行程を解明
魏志倭人伝の行程を解明 難問中の難問未だ解明できずに分厚い本を出版された方もいらっしゃる。私は高霊に卑弥呼の墓を見つけてから、そのほかに証明できる点があるかと聞かれたのでとっさに魏使が金官に来ていれば簡単に女王に会えたものをと考え里程の見直しをしました。 ...続きを見る

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2015/09/11 12:51
丹波王国を作った人々
丹波王国を作った人々 3世紀から4世紀にかけて山陰の丹後半島に日本列島で最も繁栄していた地域丹波の国が存在していた。この地域が鉄の交易の基地になって朝鮮半島と近畿地方をつないで人間の往来を促し日本国誕生のきっかけを作った。それぞれの人々の関わりを表現しました。 ...続きを見る

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2015/09/07 20:27
箸墓古墳築造の金は誰が出したか
箸墓古墳築造の金は誰が出したか 大和王朝の流れを見ていて私が抱いていた大きな疑問点は ➀ 国譲りをして大和の国は天照系の王が支配しているはずなのに病気が流行ったり、作物ができず食べ物に困る人々が大量に発生した時、なぜ救いを三輪の大物主の神に求めたか。大物主は敵の神さまである。 ➁ 大和に日本最初の大きな前方後円墳「箸墓」ができた。これ以降日本各地にこの型式の古墳が流行していく。この巨大古墳は誰が資金を出して作ったものか。巨大な建造物を作るには資金・技術・労働者が必要である。 この疑問に答える文... ...続きを見る

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2015/09/06 23:13
大和に崇神王朝はなかった・・邪馬台国は大伽耶の前身
大和に崇神王朝はなかった・・邪馬台国は大伽耶の前身 朝鮮半島南部にあった邪馬台国が鉄の生産で大国に成長し大伽耶国に発展した。この大伽耶と大和朝の関係について述べます。ここから王子のツヌガアラシトがやってきて鉄の交易を通して列島に住んでいた豪族をまとめて統一国家を作っていった。 ...続きを見る

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2015/07/30 23:12
箸墓古墳の被葬者は大田田根子
箸墓古墳の被葬者は大田田根子 大和の地に王権が確立し、初代崇神天皇の時には確固たる大和王朝ができ上がったとの認識を持っていたがどうもそんな状況ではなかったようである。 理解できなかった最大のポイントは大和の天皇が国譲りで全ての権限を得ているのに、国内で大問題が発生すると出雲の神である大物主にお伺いを立てなければならなかったことである。種々検討を重ねていってついにその謎を解くことができた。箸墓古墳に眠る人も、その近くに存在する大古墳の被葬者も明らかになってきた。 歴史的事実とされている多くの事項がフィクションで塗り固められ... ...続きを見る

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2015/07/18 14:46
丹波国の大王は誰か
丹波国の大王は誰か 丹後半島は大きな川、竹野川、川上谷川と宮津市の野田川の3水系に分かれて有力者が存在し支配領域を決めていたようである。この水系全体をまとめた丹波道主王と呼ぶ圧倒的な力を持つ国王がある時に存在したようである。各種資料をまとめていく中で浮かび上がってきたのでその辺の事情を踏まえて華やかしい時の丹波国を紹介します。但馬ルートを捨てて丹後経由で近畿に鉄を運び込んだのが大王の仕事だった。。 ...続きを見る

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2015/06/29 15:28
桃太郎は日本武尊・・・吉備の国は豊かだった
桃太郎は日本武尊・・・吉備の国は豊かだった 2014年9月8日作成のブログ「中国地方の大国−2人の吉備津彦」はその後の調査の結果間違っていることがハッキリしたので今回修正分をだします。吉備津彦は1人のみで大和朝の王子には吉備津彦はいません。温羅は吉備津武彦であり桃太郎は日本武尊であったこと。 ...続きを見る

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2015/06/19 13:05
古代の表銀座は日本海・・丹後は最大の都会
古代の表銀座は日本海・・丹後は最大の都会 ツヌガアラシト来日のいきさつを追っていく中で見えてきたこと・・九州では遺跡から鉄が多く出土しているのに近畿にはほとんど出ていない。ある本では九州の有力者が近畿への導入をコントロールしていたためとあるが、真実は瀬戸内海が船の交易の場で無かったことであった。東西に流れる潮の流れがきつくてとても人間の手漕ぎ船の限界を越えるものであった。 船が使える港は日本海沿岸にあったもので、時代とともに北上し、出雲−但馬−丹後−敦賀と変化していった。中でも丹後半島は貿易港としては4世紀、日本最大のもので東アジアの... ...続きを見る

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2015/06/13 22:58
神武から崇神まで大和には王朝がなかった
神武から崇神まで大和には王朝がなかった  神武王朝は鳥越憲三郎氏の葛城王朝説として大和の葛城の地に存在していたとの主張がなされたり、記紀に記述はあるが実態が見いだせないことから「欠史八代」としてその存在を否定する説もあります。毎日の日記が記録として残っているローマ帝国と違いAD3世紀、4世紀の日本の姿が混とんとしているのが現在の日本古代史の姿です。神武王朝は九州の伊都に存在し、崇神天皇までここに王宮があった。垂仁天皇は実在せず大和に存在したのは物部王朝であることを明らかにしました。 ...続きを見る

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2015/06/05 23:11
倭国と倭王(改)
倭国と倭王(改) 2014年1月にアップした内容を追加して発表します。倭国大混乱の原因が出雲の国譲りにあったとの考えです。 倭国がどこにあったのか、倭国王はどこに住んでいたか、倭人はどんな風俗・習慣をもっていたかなど倭国に関する情報を魏志倭人伝から抜粋して私の調査・研究を踏まえて簡潔にまとめました。魏と交流したのは半島に存在した倭本体で、列島に存在した出雲や大和の国との交渉はほとんどありません。右の赤丸は金官伽耶、左は伽耶の北限と使者が考えた地点 四角で囲んだ範囲が半島の倭国 ...続きを見る

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2015/05/08 11:36
日本文化のDNA
文藝春秋4月号に「DNAで日本文化の起源が分かった」というタイトルで対談が載っていた。立正大学三浦佑之教授と国立科学博物館篠田謙一氏。北陸新幹線建設工事で富山市小竹貝塚から6千年前の縄文時代の人骨が91体も発掘された。それまで全国で残っていたものは80体ほどだったので大発見になった。国立博物館ではミトコンドリアDNAの分析を担当した。ミトコンドリアは母から子へと遺伝するため、これが分かれば母系の祖先をたどることができる。 ...続きを見る

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2015/04/13 22:25
ツヌガ王朝の誕生   
ツヌガ王朝の誕生    大和とは関係なく4世紀、北九州には二つの王朝が存在していた。伊都国と呼ばれていた天照系を引き継ぐ神武王朝とツヌガアラシトを起点にして景行天皇を生み出したツヌガ王朝である。 この王朝の仲哀天皇のとき敵対する諸豪族をまとめあげてほぼ国の形を作り上げて息子の応神天皇に渡した。神武系の第10代崇神天皇は大和に作られた大和王朝の初代の王とされているが仲哀天皇に九州で降伏した姿が浮かび上がってきている。従って大和王朝の初代天皇は仲哀天皇であることが明瞭になってきた。詳細は別にレポートしますが大筋は以下の内... ...続きを見る

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2015/04/11 13:32
万祝の歴史
万祝の歴史 万祝は房総の船主や網元が大漁の時にそのお祝いとして船子や網子に送った晴れ着である。新春にはこれを着て漁師たちが三日三晩、祝宴を張る習慣があった。江戸後期に房総で始まり岩手や静岡の辺まで広がり、大正の末ごろまで続いたという。その経緯を日経新聞に柳和子さんが書いている。彼女夫婦は昭和30年代に房総を旅行した時に万祝にで会った。グラフィックデザイナーの夫と呉服の意匠考案を仕事にしていた彼女がこの図柄が極めて高い美術的価値を持っていることに注目した。東京での仕事をやめて家財を売却、南房総市に引っ越してき... ...続きを見る

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2015/04/08 11:17
仲哀天皇と息長氏
仲哀天皇と息長氏 仲哀天皇とコンビを組んだ息長帯(神功皇后)、この夫婦の関係がどのようにして組み上がったのか良く理解できなかった。 調べてみるとツヌガアラシトが日本にやってきた時多くの集団で来ていてそれが各地に定住して小国を作っていったことが分かってきた。息長氏は琵琶湖の東側、米原市や長浜市周辺をベースに活躍した豪族で製鉄業に秀でた集団、この辺には近畿地方有数の大製鉄地であったという。半島では同一地域に生活し事情に通じた間柄であることが浮かんできた。彼らコンビが日本国家建設の旗振り役を演じた。 ...続きを見る

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2015/03/28 13:29
 江上波 夫の騎馬民族遠征論は何だったのか
韓国の古代史の学者が朝鮮半島に馬に乗った民族が押しかけてきて、あっという間にいなくなってしまったことが何回かあった・・あれは何だったのかという疑問を持っているということを本で知った。一時期有名になった江上先生の「日本民族の起源」の騎馬民族王朝説を思い出して図書館にあった「騎馬民族のきた道」留目和実著1996年発行を読んでみた。江上説の内容とこれに対する批判と反論などが細かく載っていて当時どのような議論が行われたのか理解できた。 ...続きを見る

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2015/03/28 00:25
タジマモリが景行天皇であった
大伽耶の王子が日本にやってきた話は記紀などには重要事項として取り扱われていたが着陸地も時代もバラバラ、来た皇子もツヌガアラシト、天日矛、天日槍など名前が多数で混乱していた。今回記紀を徹底して読み、いくつかの参考文献からその経緯を解明しすることができた。出てきた結論は「大伽耶国皇子の来日地点は豊岡を中心にした但馬、出石に住み着いた彼は勢力を築いて豪族但馬氏を作り上げた。ツヌガアラシトの5代孫タジマモリが景行天皇で九州を征伐し確固たる地位を築いた。その後を仲哀―応神天皇と引き継ぎ蘇我系大和王朝を河内... ...続きを見る

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2015/03/07 22:07
瀬戸内海が航行できるようになるまで
歴史を語るのに現代の常識で推定すると大きな間違いを起こす。瀬戸内海は舟が通れるような優しい海洋では無かった。神武東征が瀬戸内海を渡って大和に入った説話や大和から三韓征伐に向かった話などはありえないフィクションであることが専門家の判断で明らかになった。 ...続きを見る

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2015/03/01 21:31
古代の輸送船・・瀬戸内海は通れなかった
古代の輸送船・・瀬戸内海は通れなかった 港湾技術の専門家で船の構造や能力にも詳しい長野正孝氏の著書を読んで納得することが多かった。記紀などに書かれている説話が実際にはあり得ないことが多く含まれていることが明らかになった。 神武東征は宮崎県から何年もかけて大和に凱旋したとか、神功皇后が大和から新羅に遠征して帰ったことになっている、その当時の手漕ぎの船では航行が不可能であった。瀬戸内海が船で航行できるようになったのは6世紀の末からであるという。(瀬戸内海の運航については別レポートにまとめます) ...続きを見る

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2015/02/23 22:55
秦氏が集大成した「先代旧事紀」
日本の古代史の原本として古事記と日本書紀は有名ですがそれよりずうっと前に作られていた先代旧事紀がある。この本の内容を知って驚いている。この本の編集の黒幕は秦一族で直接関わったのが「秦河勝」であった。秦一族は大化の改新以前には歴史の舞台には殆ど顔を見せていない。聖徳太子の記録に登場する「秦河勝」が唯一の例であるが、これ以降も消えてしまい謎の一族として扱われている。 ...続きを見る

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2015/02/10 00:10
ウマシマジが果たした役割・・・出雲の監視
ウマシマジが果たした役割・・・出雲の監視 国譲り神話に基づいて追っていくと天照と大国主間で合意ができ、日本列島内にできた最大の国「出雲国」を天照系の国「金官伽耶」の管理下に入れることに決まった。これをきっかけに大動乱が発生した。 ...続きを見る

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2015/02/02 15:34
明治初期の交通事情
江戸から明治に時代が変わるという大変革を経験してすっかり世の中雰囲気が変化してしまった。西洋化である。日本は流行のように何でも取り入れて消化していった。中国や朝鮮は儒教社会を構築しきっていたので受け入れに抵抗を持ち東アジアの中でも今に残る日・中韓の溝を作ることになってしまった。人力車 3人の日本の男が自動車からヒントを得て人力車を発明した。明治3年東京府内で開業した。人気がでて1年後には府内で1万台を越える勢いで車が増えた。それまでは歩くか「カゴ」に乗るしかなかったので人力車が文明開化を象徴する... ...続きを見る

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2015/01/22 23:29
探検江戸-平和な時代の象徴
江戸東京博物館で開かれている「江戸ー東京を探検・体験」するという企画展が開かれているのでいきました。たった150円の入場料金で2時間半たっぷりタイムスリップして江戸時代を探検してきました。大相撲初場所が開かれているので両国界隈は賑わっていました。小学生の団体と外国人の観光客がもの珍しそうにゲートから中に入って見学していました。最初の江戸城を中心とする大画面が圧倒的な迫力で面白かった。お屋敷や店は勿論のことそこを行き交う人々の表情がはっきりと分かるまで詳細に描写されていてユーモラスだった。参勤交代... ...続きを見る

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2015/01/21 23:05
フキアエズ神は存在したか?
古事記の天孫降臨の記録を追っていくとイワレヒコ(神武)が誕生するまでの過程に不思議な事実が隠されているのではないかと考えた。記紀に記載されている内容ではニニギの曾孫が神武だとされている。 良く考えていくと最初からフキアエズは存在せず山幸彦の子どもであることがはっきりしてきた。これが証明できれば神武朝に移る時間が20数年短縮されて時間軸の精度が上がってくることになる。 ...続きを見る

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2015/01/18 19:49
大町仁科氏の拠点森城(木崎湖)
安曇野のもう一つの豪族仁科氏についても調査中です。文献と現地調査で次のようなことは明らかにしています。森城(仁科城)は木崎湖に突き出した半島状の丘を利用して築城され、北と東は湖水に望み、西と南は湖水の水を入れた堀に囲まれ、有事の際は湖尻の「せんば」をせき止めて水位を高め、西側に水を入れる水城の仕組みになっていたとされる。現在では仁科神社の建っているところが森城の主曲輪で、北側には土塁がしっかりと残されている。主曲輪の南側、仁科神社の入口前面の馬出曲輪には住宅が建てられているが、曲輪の形態をそのま... ...続きを見る

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2015/01/17 19:51
安曇族の信州進出の歴史
東アジア一帯の海運を担った海人(わだつみ)族は日本の国を誕生させる原動力になった人達であった。 倭人が中国から朝鮮半島に移住し始めたのは1世紀の中ごろのこと。ここに落ち着く前に朝鮮から日本列島に関する下調べを行い戦乱の中脱出を計画できたのは彼らの働きがあって初めて可能になった。海運業を営む安曇氏が何故山奥の信州にやってきたかを初めて解明しました。運ぶものが無くなり転職したのが開拓事業だった。 ...続きを見る

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2014/12/27 19:48
上総の古代・・・菊間国のこと
東京湾岸に渡来人が西から移住してきた5〜6世紀。東京湾は現在よりも水位が5〜6mほど高かった。氷河期が終了し、氷が融けて水位が上昇した(縄文海進と呼ばれる)。しかし氷河に押えられた大陸が融けきった後反動で復元した。その時期が8世紀。海岸線が現在の状況になっている。千葉市と市原市の境界を村田川が流れる。その台地が菊間で川を挟んでちはら台が広がる。 ...続きを見る

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2014/12/24 16:22
タケミナカタと諏訪神社
タケミナカタ、諏訪神社、ヒスイなどのキーワードで数編のブログを作ってきたが3年位前の文献や情報がかなり怪しい部分を発見しているのでその辺を織り込んでここにまとめてみました。一番おかしいと考えるのはタケミナカタの諏訪までの逃走ルート。白馬以南には安曇族がいて邪魔をしていたので鬼無里から善光寺平を経由して千曲川経由で諏訪に入ったとする説。 ...続きを見る

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2014/12/17 23:23
神武朝の概要と大和進出
神武王朝は九州筑紫の国糸島の地に誕生した。魏志倭人伝には「伊都国」として書かれ邪馬台国の出張所的な機能をもった王国として扱われている。記紀には下記に示すように9代の王が続いた。6代までは妃を持つこともなく皇子は2人くらいで非常に小じんまりした王室であった。その後の3代は2〜3人の王妃を抱え、子どもの数も爆発的に増えた。この3代は兄弟継承であることも分かり大和に移る準備がなされていたことが見えてきている。それを仕組んだのはウツシコオ(欝色雄命)神であったことが推理できそうである。 神武朝の歴代王... ...続きを見る

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2014/12/07 00:00
ニギハヤヒの降臨・・大和朝廷の誕生まで
大和朝廷が誕生するまでのプロセスが混とんとしていて日本の古代史が訳の分からない状態になっていた。ニギハヤヒの動きをつかむことで彼が河内に天孫降臨したことが朝廷誕生のキーになっていることが分かってきた。崇神天皇は自らの意志で大和遠征を果たしたのではなく、牽引者の作った構想に乗っかって九州からやってきたものと考えている。大和にできた王朝は最初「物部王朝」であり「神武王朝」が移ってきて大和王朝ができるのは185年近い時間が経過した後のこと。 ...続きを見る

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2014/11/27 23:42
古墳に眠る石棺のお話
巨大な古墳の中で中心になるのは棺桶である。現代は火葬が中心になってしまったので壺に収まるような大きさになってしまったが古代には死者と多量の副葬品が収められていた。 弥生時代までは木棺や甕棺が主体であったが鉄が使われだすようになるとまず刃物として石の加工が可能になり王墓クラスには石棺が登場してくる。ここで使われる石は播磨(兵庫県)で作られたもので10トンにも及ぶ巨岩が運搬されていたことが明らかになってきた。河内に最初にできた大型古墳で武内宿祢(仲哀王)の墓に収まっている長持型石棺(歴博より) ... ...続きを見る

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2014/11/19 22:14
葛城氏の栄華と衰退
応神朝になってから続々と王妃を生み出した有力豪族葛城氏の謎に迫った。古墳時代、葛城氏は大和葛城地方(現御所・葛城市)に本拠を置いた古代の在地豪族。 ...続きを見る

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2014/11/17 23:37
歴博の古代展示品はすばらしい
久しぶりに佐倉の歴博を訪れた。「文字がつなぐ・・・古代の日本列島と朝鮮半島」という国際企画展示に興味をそそられたから。第一企画展示は原始・古代辺であったがとっても面白かった。ここ2年ほど来てなかったがその間に展示がすっかり充実していた。このような異次元空間の彫刻が並び圧倒される。背景に見える人たちは西欧人の団体で学者先生か長時間の説明に聞き入っていた。これは青森の三内遺跡の復元家屋。当時の人間がどんな暮らしをしていたかが良く分かった。 ...続きを見る

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2014/11/16 23:38
池田町川会神社と安曇族
安曇野にある最も古い神社は醍醐天皇時代の「延喜式」にその名を留める穂高神社と川会神社二社だけである。この神社には何か歴史のヒントを供えているのではないかと考えて訪問しました。高瀬橋を渡った所池田町の外れ、会染地区十日市場に鎮座している。鎮守の森に囲まれた川会神社の鳥居 高瀬川を渡って直ぐの道を左折、100mほど北上すると目の前に鳥居が見える。「延喜式内 川會神社」と刻まれている。社はありふれた村社に過ぎない。参道正面に額殿(神楽殿)があり、その後方に拝殿。拝殿の後方にブロック垣に囲まれて流造の本... ...続きを見る

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2014/10/31 17:48
出来立ての古墳・・豪華な余興
群馬県の保渡田古墳群をみて驚いてしまった。ここに進出してきた豪族が大きな3基の古墳を作っている。その一つに八幡塚古墳がある。古墳の破損状態がひどいというので造営した当時の姿に復元したという。航空写真でみるとまるで現代の巨大建造物と変わらない姿を見せている。見学した後この地に進出してきた王が何故こんな豪華な墳墓を作る必要があったか考えた。関西では流行であった上、開拓地の開発が順調に進み食べ物や生活が豊かになった。その余力で古墳作りの専門家集団を招いて作らせた。余裕のできてきた仲間一族に手ごろな仕事... ...続きを見る

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2014/10/28 11:56
前橋市の総社古墳群
高崎に宿泊して10月17日を上毛野(群馬)国中心部の古墳を見て歩こうと計画していた。最初は前橋市総社町にある総社古墳群。JR総社駅周辺に多数の古墳が利根川に沿って並んでいる。最も古いのが二子山古墳90mで6世紀最後の前方後円墳と言われている。豊城入彦(とよき)の墓との伝承がある。北から順次時代が下がる。一辺が56mの大型方墳で7世紀初頭の建造。大きい前方後円墳が禁止になり方墳になった初期の物と思われる。家形石棺が出ている。この石棺を作るのには鉄製の鑿やハンマーが必要であった。宝搭山古墳 一辺が6... ...続きを見る

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2014/10/26 23:24
桐生の街並み繊維産業
足利市を訪問の後桐生に向かう。古い街並みが残っているのと山仲間のO先輩が旧制桐生工専を卒業されたと聞いていたので群馬大工学部に保存されている学舎もついでに見たいと思った。昼食を取った台湾人経営の小さな店に入ると中国語を話す学生が非常に多く、茶碗に盛ったご飯を2回もお代わりして食べていたのには驚いた。直ぐ近くに足利工大がありそこの留学生であることが分かった。桐生工専はこの校舎1棟のみが残されていた。こんなレトロな建物は少なくなったのかNHK朝の連ドラ「花子とアン」の撮影はここで行われたという。2階... ...続きを見る

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2014/10/25 22:21
ばんな寺・・・足利氏の菩提寺
足利一族がこの渡良瀬川の畔に住み着き大きく発展していった跡が残っていてとっても興味がわいてきました。系図によると源氏の頭領義家の長男が頼朝の系統を引き継ぎ、次男義国から足利家が出発していてその息子義康が足利家の開祖になっている。その子、義兼がばんな寺の開祖になっている。太鼓橋を渡ったところにある山門。ばんなの漢字はすごく難しい。義国と義康の2代がここを邸宅にしていた。鎌倉時代の初期、義兼が邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗の寺院を設立した。本堂は国宝に指定されている。鎌倉の建物としては鐘楼... ...続きを見る

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2014/10/23 10:29
足利学校・・・東国唯一の大学
足利学校は日本最古であるが、いつ創建されたのかはっきりしない。孔子の儒学を中心に天文・易学・兵学など要請された多岐にわたる分野を網羅していた。15世紀関東管領上杉憲実により中興され江戸末期まで23代の学長に引き継がれてきた。外から見た学校の雰囲気、日本建築の柔らかさが残る。学校玄関前に置かれている「ゆうざの器」 孔子の教え「中庸」を示すもの。空の時傾き、水が入ると直立し、満杯になるとひっくり返る。「満ちて覆らないものは無い・・慢心や無理を戒める」孔子の言葉を味わう道具たてである。孔子とその弟子の... ...続きを見る

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2014/10/22 15:50
海運業の安曇氏などが各地に移住した理由
松尾大社の主祭神はなぜ市杵島姫になったかを追求してみました。その中で宗像一族の人々が秦氏を助けてこの地を一緒に開発したことが見えてきました。海運業者がなぜここに来たか・・・その理由は古代の高度成長で大陸・朝鮮半島などから移民が大量にやってきた後、人の往来がばったり途絶えてしまい海運業が成立しなくなったことです。 ...続きを見る

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2014/10/09 10:30
古代の高度成長を牽引した秦氏
秦氏がシルクロード天山山脈の北、バルハシ湖近くにあった「弓月国」からやってきたいきさつと秦氏が果たした役割についてまとめました。日本に巨大古墳が出現した時代は古代日本の高度成長期であった。この成長を牽引したのは総合商社「秦本店」であり巨大古墳をたくさん作ったのも彼らであった。弓月国の功満王が万里の長城の建設の苦役に耐えかねてシルクロードの終点で渡来人で溢れていた新羅(慶州)にやってきた。定住する場所を探し求めていた時誘ってくれたのが九州で王朝を開いていた仲哀天皇であった。仲哀8年(358年)正式... ...続きを見る

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2014/10/04 11:34
出雲の国譲りが倭国大乱の原因であった
私は歴史年表を眺めていて次の事実を発見した。記紀にも詳しく記述されているように出雲の国を天照系の天津族に譲るように決定がなされた。オオクニヌシ大王の治政後半AD150年代のことである。この年代から大乱が開始されしばらく続いたことが記録されている。以下に検討結果を述べる。 ...続きを見る

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2014/09/25 21:27
沖ノ島の宝物は誰が供えたか
宗像大社国宝展が開かれて発見された遺品が並んでいるが誰が何の目的で供えた物か? 会場の説明ではあれほどの数量の貴重品は大和朝廷の指示で大陸への渡航の安全を祈って奉納されたとしている。私は以下に説明するが半島先端に国を作っていた倭人が列島を目指してやってきた。最短ルートは釜山から直接東に向かうルートであるが、玄界灘の荒波を乗り切る最も危険な道でもあった。ここを無事乗り替えた感謝の意味で乗組員が奉納したものであると考えている。 ...続きを見る

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2014/09/20 15:51
吉備の古墳群誕生推移
崇神王朝ができ、大和で最古とされる箸墓や西殿塚古墳は大型の前方後円墳の形式である。これ以降、何故か全国の大型の古墳の形式がこの形に統合されていく。その大和の墳墓の源流は吉備にあったのではないかと見られている。なぜ吉備に巨大古墳が誕生したのかその謎に迫る。 (1)吉備の聖山「中山」 吉備の聖なる山「中山」一帯の祭祀に関する施設の配置を示している。後に吉備国が備前・備中・備後に分割されるとき備前と備中の境界はこの山の中間であった。またそれぞれの一宮はこの山の中にあるという珍しいことになった。 ... ...続きを見る

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2014/09/08 12:04
中国地方の大国−2人の吉備津彦
瀬戸内海の中心部に豊かな国を作り上げ、海運業を主力で活躍した国が吉備である。大和に誕生した貧弱な王朝にとってはその富を何とか手に入れようと様々な攻勢をかけていった。その経過をまとめてみました。 この国を作り上げた大吉備津彦(賀陽氏)と大和からの侵略者吉備津彦(上道・下道氏など)の2者が織りなした歴史がここにありました。4〜5世紀、現在と違い児島湾は奥深くまで達していて船がどこにでも着岸できた。現在岡山市街地になっている場所は内海になっていて吉備穴海とか吉備内海と呼ばれていた。 ...続きを見る

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2014/09/08 11:28
対馬の海幸彦・山幸彦
天孫降臨から神武東征までの山幸彦など神武一家の生活情報をまとめました。天照神からニニギが天孫降臨の指示を受けて高天原(金海)を出発するも、彼はまだ生まれたての幼児で日本列島を目指して対馬までやってきた。記紀では仲間を引き連れて日向の高千穂の峰に降臨したことになっている。しかし記紀には海彦・山彦の話やウガヤフキアエズ神のお話が長々と書かれていてその後に神武の東征につながっている。 最初ニニギは神武天皇と考えて調査したのだがそれは間違いで、実際に天孫が降臨するのには3代の時間が必要であり、成し遂げ... ...続きを見る

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2014/08/30 11:58
山幸彦と竜宮伝説
海幸彦・山幸彦説話や竜宮城の話は九州各地に伝わっているようだが対馬の神社を通して伝わってくる話はとってもリアルで2世紀の後半、この地であったことだと思われる。以前作ったブログの更新をしました。住吉の神、塩土老翁(シオジノオキナ)が山幸彦を指導したことやウガヤフキアエズを育てた乳母たちの存在が分かったので。赤丸の説明の数字と文章の項目は同じです。 (1)美津島町鴨居瀬(かもいせ)浅茅湾探索開始点 釣り針を探す旅に出た山幸彦は、まず鴨居瀬に到着。 鴨居瀬〜小船越(こふなこし)の通路は、古代... ...続きを見る

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2014/08/28 22:49
山幸彦復活の地「和多都美神社」
念願の対馬和多都美神社に参拝してきました。ここの多くの写真は海から数個の鳥居を越えてのものが多いのですが陸から見ると海に沈んでいる鳥居の姿が見られます。神社の拝殿。ここのご祭神は神武の祖父山幸彦と妻豊玉姫が祭られています。 ...続きを見る

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2014/08/27 16:55
壱岐国博物館はすばらしかった
壱岐国の古代の中心地と思われる国分寺などがあった場所にある鬼の窟古墳、元寇の戦役の跡がある芦辺港と壱岐王都があったらしい原の辻一岐国博物館などを紹介します。これは古墳が盗掘にあったとき強盗が価値の無い物と捨てて行った亀です。 馬の顔の真ん中を飾るシンボルになっていた。金官伽耶に首露王が降臨した時、倭国のシンボルは亀でした。邪馬台とは「亀」の伽耶語であるとの説もあるようで亀は王室にとって最も重要なものだった。「鬼の窟」と称する横穴式石室墳の入口。天井には4mにも及ぶ石で覆われて第1〜第3室、玄室... ...続きを見る

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2014/08/25 22:27
人気者の済州島
済州島は朝鮮王朝時代の流刑地として有名だったので暗いイメージが付きまとっているものと思っていた。所が韓国人には東洋のハワイと称して憧れの地になっているらしい。理由ははっきりしている。朝鮮半島はシベリヤの寒風をまともに受けて暮らしにくい生活を余儀なくされるが済州島に来れば黒潮の影響を受けて非常にしのぎやすい場所になっているからである。 ...続きを見る

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2014/08/21 08:43
埼玉稲荷山古墳鉄剣の記録
稲荷山古墳から出た金錯銘鉄剣の文言解釈を巡ってはいつ、誰が、何を目的に書いたか論争が絶えない。今回検討した結果、有力な雄略天皇の時代である事が分かったので報告します。埼玉県第2位規模の大型前方後円墳である。造営年代は古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造された大型古墳である。大仙陵古墳と墳形が類似していることからその後に続く雄略であっても不思議ではない。 ...続きを見る

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2014/08/18 22:55
ブラジル移民の勝組、負組
ブラジル移民が開始されてから100年、移住者は一旗揚げて早く故国に帰ることを夢見ながらついに実現することなく今日を迎えています。懸命なご努力の基、農業分野で成功を収め、ブラジル人からは絶大な信頼を寄せられています。 ...続きを見る

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2014/08/17 16:06
物部連と蘇我臣
氏姓(うじかばね)制度 − 連と臣 日本の歴史書に記しているように6世紀に入ってくると朝廷の組織ができてきて現在の政府組織のようなものができてきた。それを支えるのは特定の名前(ウジ)を持った蘇我・物部・大伴・・・などの豪族であった。 カバネ(姓)はウジの名称のあとに付く臣・連・君などの称号のことで王権内の政治的地位を示すものとされている。特定の氏が特定の職名を継承する傾向が生まれてウジ名と一体化して使われるようになっていく。 連系集団 連は天津(天照神)系の集団であり大王を輩出する物部氏... ...続きを見る

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2014/08/17 14:54
巨大古墳の建設規模
大仙陵(允恭古墳)の建設工数と所要時間とを検討しました。 仁徳天皇陵と指定されている大仙陵を建設するのにどの位の労働者と費用が必要だったか ― 大林組編著『復元と構想』東京書籍 ― を参考にして推定してみる。 ...続きを見る

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2014/08/15 20:50
倭の五王が天皇でない証明
日本歴史の常識とされる「倭の五王が大和の天皇である」ことに反対である証拠を作ってみました。 この表は倭国の王が中国の王朝に朝貢した記録です。例えば王讃は414年から430年まで4回使いを送っている。黄色は賛がこの期間在位していたことを示します。大和の天皇は記紀にある在位記録を表示し、対応する倭王を同じ色で示した。 ...続きを見る

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2014/08/14 22:07
仁徳陵は允恭陵である-正しい陵名 
河内古墳群の正しい陵墓名を見直すのが今回のテーマである。 その結果、巨大古墳は仁徳陵と允恭陵であり、応神陵はもっと小さい陵墓だったことが分かった。超大型古墳の被埋葬者は宮内庁指定名とほとんどが違っていた。日本は天孫降臨の基、神武王朝の管理下に置かれて天照系の人々が各地に活躍していた。瀬戸内海を介して中国・四国と東進し、崇神天皇の時には王朝自体が近畿地方まで達していた。 ...続きを見る

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2014/08/12 22:49
河内の最初の古墳-武内宿祢
(1)河内にできた最初の古墳 河内の古墳の所在地を地図を買ってきて書き込んでいった。川筋に分布しているようすは分かったのだが現在の奈良平野から流出する大和川が古代には全く別の所を通っていることを文献で知ってビックリした。大阪湾にあった大きな湖に直接入り込んでいたので今の大和川は誰かが大工事をやって開削し、直接住吉神社のある場所につないだことが分かった。 古代の河筋は難波京に向かっていた 現在の大和川は直接住之江区役所のある所に流れ大阪湾に出ている。以前にも小さな川はあったのだが河内古池古墳... ...続きを見る

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2014/08/10 19:54
邪馬台国の場所
日本人にはなじみの無い場所ですが私が主張する高霊の地を紹介します。市に該当するような大きな町ではなく高霊郡の町です。高麗の町と左丘陵地帯に広がっている円墳を中心とする池山洞古墳群です。この中に卑弥呼の墓が存在します。もっと近くから古墳群を見た観光宣伝用のもの古墳群の中に大伽耶博物館がありここで発掘されて出土した様々な遺品が展示されています。日本のように宮内庁の立ち入り禁止令のようなものは無く計画的に発掘が進められて様々な新発見が続いているようです。信仰の中心、修験者などが生活を送る伽耶山を背景に... ...続きを見る

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2014/08/10 11:32
倭の五王が中国に何を求めたか
五王の話題になると讃、珍・・など使節を送った王は誰かという話に行ってしまい使節が何をしようとしたかが抜け落ちている。今回レポートで軍事担当の倭王が将軍の位を要求したもので日本の王は全く関係のない事を明らかにしました。 ...続きを見る

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2014/08/09 21:32
年代を入れた日本の古代史
神武天皇以降の日本天皇の在位時期の推定をおこなった。在位の短い天皇は省略しました。 通常表現は天津系(天照、物部など)、イタリックは国津神系(スサノオ、蘇我)の王を示す。 比較的資料が残っている新羅王朝(金氏)の親子継続の例を見ると1代は平均して15年相当と考えられるのでそれを適用してみた。 天皇の順番は日本書紀の記述に従った。13番成務、日本武尊、仲哀および武内宿祢は全て同一人物であるとみなし成務天皇にまとめた。墳墓の場合のみ仲哀陵を採用している。 また継体天皇はクーデターにより亡くな... ...続きを見る

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2014/08/06 23:16
上総の国府を探す
上総の国は飛鳥時代に誕生し国分寺・国分尼寺の地は遺跡が残り場所がはっきりしているが上総国府所在地は確定できないままになっている。それを探し出すのは歴史のロマンである。昨年市内にシニアのNPO「かずさのくに国府探検会」が発足し、観光ボランティアを始めている。今回事務局長の山本さんのご案内でコースを歩き大変面白かったので要点を記して見ます。 ...続きを見る

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2014/07/18 23:35
出雲で発見された銅剣・銅鐸はなぜ隠されたか
出雲の銅剣・銅鐸が発掘されたことで記紀神話の上巻に書かれている出雲の国の存在が学者にも日本国民にも認識されるようになってきた。神話の世界が実際にあったのではないかと信じる人が増えている。しかしなぜ大量の武器が埋められてしまったのか誰も説明してくれない。私がこのテーマに対して回答を用意しました。・・・・・それが必要でなくなったから不燃ごみとして地中に埋めてしまった。 銅鐸も重要な武器だった。写真は全て荒神谷博物館のホームページから  記紀の神話で明らかになっているようにAD50年代に倭国のスサノ... ...続きを見る

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2014/07/16 15:22
安曇湖がどうやってできたか
最近長野県南木曽町で発生した土石流の被害は大変なものだった。局地的な大雨で地盤が崩壊し2〜30mに及ぶ巨岩が急流を押し流されて木曽川にまで達したという。古代史に残る安曇湖の成因もこのような現象ではないかと考察してみた。 現在安曇野市になっている平野はほとんどが湖の下になっていた模様。遺跡の分布から海抜600m以下は水面下だったと思われる。この湖を作っていたのは明科町から流れ出す「犀川」の下流にある山清路に高い堤防のようなものができ堰き止められていた。安曇湖について前に作ったブログ安曇野の開発h... ...続きを見る

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2014/07/13 23:28
朝廷のガードマン薩摩隼人
神武朝のイベントを調査していくと薩摩に渡った倭人が朝廷と特別な関係を持っていたことが分かってきた。  (1)薩摩隼人の祖は天孫降臨のニニギ神の長男海彦 記紀に詳しく載っているのが海幸彦と山幸彦の話。 兄と弟が立場を変えて山彦が釣りに出かけることになった。 大きな鯛がかかって引き上げようとしたが糸が切れて逃げられてしまった。 釣り針を失くしたことを兄に謝ったが許してもらえなかった。 針を探しにワタツミ海神の所に行き3年も暮らし娘のトヨタマ媛と結婚し遂に針を見つけることに成功して帰ってき... ...続きを見る

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2014/07/07 10:47
邪馬台国は朝鮮半島にあった
倭国の始まり 倭国(伽耶連合国、加羅国)建国の始祖は中国の上海方面から戦乱の中移動してきて朝鮮半島にやってきた金首露王である。三国遺事の駕洛国伝に伝わる内容によると王は9千の有力者と7万5千人を率いて金海に集まり住みついた(AD42年)。金海は朝鮮半島最南端で、大河「洛東江」が海に流出する場所にあたる。貿易には最適な良港を有し平坦地に金官伽耶王国を作った(釜山空港のある場所)。その夫人はアユタヤ(インド)からやってきた別の移民集団9千人を率いてきた許黄玉である。 ...続きを見る

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2014/07/04 21:53
上総の盟主上海上氏
東京湾の上総周辺には養老川や小櫃川、小糸川、村田川にそって莫大な量の古墳群が古くから連綿として存在している。いつ、誰がやってきて住み易い房総の地が開発されていったのだろうか・・・非常に興味が湧いてくる課題である。養老川北側(現在市役所のある台地)の古墳の分布 古墳時代は現在の町の中心部は全て海の下で水面が5m程高い位置にあった。そのため船着き場のように等間隔に近い条件で古墳が並んでいる。左の神門遺跡が一番古い。稲荷台古墳のなかでは最も大きい稲荷台1号古墳からは「王賜」の文字が入った鉄剣の存在が... ...続きを見る

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2014/07/03 23:21
神武の東征と兄イツセの戦死
神武の一隊が糸島を攻略した時の場面を今回資料を作成して考えた時、父親ウガヤフキアエズ命の陵墓が違っていたことに気がついて前に発表したブログを訂正します。この図が神武東征の戦争の場面です。 神武一行は対馬を出発、大伴・久米軍のサポートを受けて糸島半島の博多湾と反対側の加布里湾側に上陸した。湾岸を進撃、志登付近で先住民のナガスネヒコなどの抵抗を受け戦ったが長兄が戦死する損害をだした。撤退し一度出発地に戻って戦線を立て直し、右側の山道を迂回して日が昇る東側から攻略した。住民の激しい抵抗を受けたが神の... ...続きを見る

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2014/06/29 21:06
香取海とは
利根川が流れる霞ヶ浦や印旛沼などは大きな海を形成していて「香取海」と呼ばれていた。日本の歴史の中でも東北に進出する出発点になっていて数々の物語が生まれてきている。現在の水郷に行きつくまでの話を紹介します。 この地図は縄文時代(5〜7,000年前)の陸地の分布を示すが千葉県は半島では無くて本州から離れた大きな島になっていたことが分かる。後に海面が下降してきて陸地の部分が増えていったが、この姿がベースになって変化している。常陸風土記には太平洋を「外海」、香取海を「流海」と称したと書かれている。この... ...続きを見る

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2014/06/24 20:39
鹿島神宮はいつからあったか
鹿島神宮を訪問して香取神宮を含めて古代東国に対する疑問がわいてきた。それらについての考察。神社の創設は350年頃ではないかと推定できる。 霞ヶ浦一帯は香取海と呼ばれる大きな湖になっていた。太平洋に排出される水路の両側に鹿島・香取神宮が配置されている。明治期までは伊勢とこの2社、3社のみが「神宮」と呼ぶことが許されていた。 ...続きを見る

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2014/06/22 14:26
鈴木さんの発祥の地
熊野古道のテレビを見ていたらそこにある藤白神社(海南市)が全国でも最も多い姓「鈴木」さんが生まれた地であるという。熊野三山信仰は奈良時代から始まり平安・室町と段々盛んになっていった。平安時代熊野からここに移り住んだ穂積氏が藤白神社を設立し、全国、特に東国、に熊野信仰と熊野神社の建設を広めていった。藤白神社  彼の伝道方式は各地を巡り信仰が深まった地域にある大きな古木に鈴を掛けた。そして社殿の建設が終了するまでその鈴を拝んでもらった。その神木を「鈴木」と呼んだ。このようにして全国に4000社の熊... ...続きを見る

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2014/06/14 23:15
上総の国府
上総は関東でも大きな国であった。国分寺や国分尼寺は現在の市役所周辺にあったことは出土品などから明らかになっていて立派に復元された国分尼寺が観光の目玉になっている。ところが国府がどこにあったのかは場所が突き止められていない。真夏のような天候の中2時半に家を出て自転車で目検討を付けた辺りを走り回ってみました。 能満地区にある府中日吉神社 滋賀県大津から勧請した日吉社のシンボルである猿が両側で迎えてくれる。拝殿。江戸時代の棟札に白鷗2年(673年)創建と書かれていた。私はこの近くに国... ...続きを見る

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2014/06/04 22:35
邪馬台国が大伽耶になった
邪馬台国という形でできた国が発展してでき上がった国が大伽耶の国、倭の五王の時最も広大な領域を有して倭国全体を動かしていた。国が出来上がる情況と滅亡に至る過程についてまとめてみました。 倭国の始まり 伽耶建国の始祖は中国の上海方面からやってきた金首露王である。三国遺事の駕洛国伝に伝わる内容によると王は9千の有力者と7万5千人を率いて金海に集まり住みついた。その夫人はアユタヤ(インド)からやってきた別の移民集団9千人を率いてきた許黄玉である。そしてこの集団が王妃の地位を独占する。王妃も倭人集団で... ...続きを見る

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2014/05/27 07:07
和同開珎の原料が出た場所 
秩父からはニギアカガネ(自然銅)が発掘されて日本最初のコイン「和同開珎(かいちん)」が作られたことが有名です。この和同黒谷の場所をぜひ見たいと札所めぐりの後そこまで自転車を走らせた。時間が無くて聖神社(銭神様)までしか行けませんでした。この図から分かるように和銅露天掘り跡、黒谷の銅製錬所跡、金山抗などの場所が示されています。聖神社の創建は和同元年(708年)、国産初のニギアカガネが秩父で見つかり朝廷に貢献された。銅が産出したという報に接した天皇は喜びのあまり年号を「和同」に変えた。これがきっかけ... ...続きを見る

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2014/05/27 00:01
秩父札所めぐりー2
秩父市街地を見下ろす荒川の左岸を一巡する高台のルートを午後のコースにした。素直に川沿いを選ぶのではなく一度山の上の秩父ミューズパークに登ってしまったがここは上りがきつくて長いので大変なワークであった。でも広い草原にスポーツ施設や遊び場が用意されていて秩父市民の豊かな自然環境が羨ましかった。蕉風山 音楽寺 天長年間慈覚大師が当所の凡ならざるを知り、尊像を安置して山路をお開きなさった。1234年、秩父を開いた13権者として妙見大菩薩等13の尊者の像が青い帽子を着用して寺の上の台地に並ぶ。寺の名前は松... ...続きを見る

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2014/05/26 22:51
秩父札所めぐりー1
5月10日に31番札所に行き、24日に再び来るチャンスが巡ってきたので今回は自転車を借りて秩父34ケ所をできるだけたくさん回って札所めぐり体験をしようと計画した。ちょうど今年は午歳総開帳に当たり普段は本尊が厨子の扉を閉めたままでしか拝めないがオープンで拝観できるという。12年に1回のチャンスと客寄せのスローガンになっていた。 最初が西武秩父駅から近い26番札所円融寺(磐井堂) 観光案内所でもらった地図を見て国道に沿って走るが自動車が多く、安全上からも問題だった。歩いたり自転車に乗るのは間道があ... ...続きを見る

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2014/05/26 18:48
仏教伝来の事情
インドで発生した仏教がはるばる日本までやってくるには色々な事情があったようで宗教のベースがあった所は浸みこむように発展したが、朝鮮・中国では消えてしまう運命にあったようです。         朝鮮半島への伝来 朝鮮半島への仏教の伝来は、高句麗へは372年、前秦の僧順道が仏像と経文を持ってきたのが最初とされる。百済へは384年に伝来している。しかし新羅への到来は約150年も遅れた528年法興王によって公認された。百済・高句麗共に宗教を受け入れる素地は乏しく育たなかった。百済は中国から僧侶や学... ...続きを見る

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2014/05/15 13:09
秩父31番札所
小鹿神社訪問時近くで働いていた男の人に31番札所に歩いて行くのにどのくらいかかるか聞いたところ頭を抱えて1時間は・・と答えてくれたので歩くことに決めた。小鹿野高校から道路沿いに行くも表示が無いので困っているとおばあさんが出てきて後1kmはあるとのこと。実際札所に達したのには1時間半の時間がかかった。秩父札所第31番観音院 秩父礼所で最高の景観が楽しめる地であるという。バス停のある場所からひたすら花桃街道を登る。民家が終わると川筋にそって広い道がついている。道路は良いのでほとんどの人は車であった。... ...続きを見る

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2014/05/11 23:59
日本が倭国になった時・・欽明天皇
凄く勢いのある継体天皇とその治政で高度経済成長を遂げた社会。天皇の晩年に発生した九州の磐井の反乱、継体天皇の死(531年)と時を移さず532年成立した欽明王朝の関係は大きな事件が隠されていると直感的に感じた。 ...続きを見る

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2014/05/06 18:16
大和朝廷ができるプロセス
中国の書「旧唐記」には日本は倭国の別種であると記載され、元々小国であった日本が半島の倭国を併合したものだと記述している。古くから中国と交渉してきたのは半島にあった「倭国」本家であり、500年後半から日本に移った倭国が中国に通じたとある。大和朝廷誕生のプロセスを見てみよう。2013年9月に作った内容が大幅に変わったので今回内容を改定しました。邪馬台国は日本の大和王朝誕生とは全く関係のない存在でした。 その統一のプロセスが複雑で日本書紀や古事記を読んでも、年単位でどんな事があったのかさっぱり... ...続きを見る

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2014/04/28 23:00
「武射の国」のできるまで
現在千葉県山武市となっている地域は昔武射の国であった。成田近くの芝山からは埴輪などがたくさん出て有名ですが古墳時代にどのような形で関東地方の開発が進んだのか一つのサンプルとして取り上げてみました。豪族忌部氏一族の活躍が浮かんできます。 ...続きを見る

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2014/04/19 21:33
忌部氏の鳴門進出
豪族が日本にやってきてどのような形で地方に進出していったかとっても興味のあるところです。千葉県に黒潮に乗ってやってきた忌部氏についてその行動をチェックしました。九州の筑紫からまず四国の阿波・鳴門に移り吉野川の地を開拓しました。その後別働隊が千葉の安房に着陸しています。鳴門から説明し、安房は別レポートにします。 ...続きを見る

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2014/04/17 22:16
任那の国とは何か
朝鮮半島にあった任那の国は大和朝廷の出先機関で任那日本府として半島を支配していたと考える人が多い。調査を進めていくと「任那」と呼ばれる対象はあったが日本書紀に書かれている内容とは違うようだ。 ...続きを見る

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2014/04/11 23:34
継体天皇の即位事情
謎の天皇とされる継体の内情を調べ余りにも立派な業績をの残したがため不運な立場に落とされてしまったことが分かった。この後の欽明天皇から新王朝が始まったと見ることができる継体王の4ケ所の王宮と開発に関係した場所に残る古墳の数々。▲印は王宮の存在地 継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野で誕生した。琵琶湖を挟んで長浜や高島に地には豪族三尾氏や息長氏の生活拠点があった。 ...続きを見る

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2014/04/04 00:08
江戸時代の医学
戦争も無く平和の続いた江戸時代外国から届いた医術情報が日本国中を駆け巡ってすごい技術進歩を引き起こし現在に繋がっていることを国立科学博物館で「医は仁術」特別展を見ることで良くわかりました。これは体の各器官の働きを3D画像を使って説明している1シーンです。中央に人間の体を表示し、どの部分を取り上げているのかを示します。左右のくスペースにそれを拡大して動画で説明し要点を文字で表示する仕組みで実に良く作ってあります。漢方医学は内科を中心にしたもので動植物から抽出した薬が症状に合わせて調合されてきた。漢... ...続きを見る

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2014/03/27 23:11
埴輪の形はどこからきたか
お雛さまや5月節句の侍の姿は日本独特の風習を伝える行事である。これらの原点が古墳から出土している埴輪にあるのではないかと考え東京国立博物館のいくつかの展示品を取り上げてみました。群馬県太田市出土の挂甲(けいこう)の武人(国宝)。 始皇帝陵から出土した中国人とは全く別の印象を受ける。同じ武士でも福岡県八女市岩戸山古墳から出土した石人(重文)は顔などの表現がかわっています。福岡県うきは市湯塚道出土の短甲を皮で閉じた鎧であるが鉄製の重いもの。更に鉄製の冑を付けるわけだからその重量たるや大変なものである... ...続きを見る

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2014/03/26 22:47
仮面の美女が国宝に
八ヶ岳山麓にある尖石考古館に保管されている縄文時代の土偶「仮面の女神」が国宝に指定された。2012年10月に訪問してじっくり見てきているので再度紹介します。中ツ原遺跡出土の「仮面の美女」約5千年前の像この像は既に国宝になっている「縄文のヴィーナス」破壊される土偶が多い中なぜ壊されなかったかが不思議がられています。最近古墳の調査で弥生時代を多く見ているが縄文の時代の人たちが作ったのはお腹も腰も、足も丸々と太ったどっしりしたもので重量感に溢れたものです。顔が小さいので8頭身以上ありか?作られている壺... ...続きを見る

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2014/03/19 22:54
上野の博物館と支倉常長
芸大に用事があったのでついでに国立博物館に寄ってちょうど展示されていた常長の展示を見てきました。400年前、戦国時代が終わった時伊達政宗の指示によりスペインに使節団が送られてその代表を務めたのが支倉常長でした。イタリア人の画家が描いた常長。この時45歳であったという。通商を求める外交使節でありヨーロッパ人が見た最初の「サムライ、武士」であった。国王やローマ法王に謁見するという最高の待遇を受け貴族にも列せられた。短い滞在期間(3年)の中で洗礼を受けクリスチャンにもなったが帰国した時には状況が全く変... ...続きを見る

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2014/03/17 23:02
日本語の起源・・・・ヘブライ語の影響大
日本語の成り立ちについては多言語との関係において確固たる関係が確立せず論争が繰り返されています。身体の部分とか色の表現といった最も基本になる単語は縄文時代以降日本で話されてきた単語がベースになっています。その後社会の仕組みや精神活動など複雑になる表現の場に登場してくることばは古代ユダヤで話されてきたヘブライ語の影響が強いことが分かってきています。 ...続きを見る

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2014/03/13 13:27
伝統文化のまつり
千葉青葉の森文化ホールにて千葉に伝わる伝統文化のまつりが開かれた。3年前の東日本大震災復興チャリティーを兼ねて開かれたもので無料公開であった。これは是非見たいと注目していたが九十九里を中心とする地域の獅子舞や大漁節などが演じられて堪能しました。これは横芝光町無形文化財にも指定されている中台梯子獅子の実演でした。実際にはかなり高い梯子上で演じられるようですが獅子が階段を登って行ってトの字の、消防士がやるような芸を披露するものです。東金市の北乃幸谷の獅子舞にでて2匹の獅子を演じた中3、高1の若いペア... ...続きを見る

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2014/03/09 23:14
神武天皇の即位はなぜ紀元前660年か
倭人の由来はユダヤ人と考えています。彼らが国を追われて世界中をさまよって動いていたわけですが東に逃れてペルシャに定着。そこから更にシルクロードを経て東北に逃げてきたのが日本人になった倭人たちです。彼らが捕虜から解放されて東征に出発した記念すべき時期を設定したのがこの紀元前7世紀と思われます。 ...続きを見る

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2014/02/25 23:41
古代日本の年代推定
九州の神武朝開始200年、大和に崇神王が東征したのが340年、応神が大和に乗り込んだのは370年そして朝鮮半島にあった倭国本体が日本に引っ越してきて倭国=日本になったのは560年代と推定される。これらの年代が日本の歴史の真実に近いものと考えている。 ...続きを見る

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2014/02/25 22:14
倭人が作った倭国と新羅の違い
西洋的な風俗習慣を持っていた倭人が作った国である倭国と新羅の国はいつの間にか異なる道を辿って行ったようである。違った面と同じ所を比べて検討してみる。 ...続きを見る

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2014/02/02 12:40
西洋文化だった古代新羅
倭国の調査をやってきたが由水常雄著「ローマ文化王国−新羅」(新潮社2001)を読んで非常に驚くことがあった。三国時代は新羅・百済・高句麗の三国を指していてる。この中で中国と頻繁に交流していたのは百済と高句麗で、新羅はほとんど没交渉で使節の派遣も100年に1回位の頻度だった。     ローマングラスの出土品 ...続きを見る

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2014/01/30 21:58
神武軍の主力は久米の軍隊
神武の軍隊は大伴氏の祖アメノオシヒ(天忍日)は久米部を率いて大軍の監督者として奮戦「ヤタガラス」の導きに従って敵を追いかけて「宇陀」の地に至った。オシヒは部隊を良く導いたとして「道臣」の名前をいただいた。部隊の主力をなした久米氏は久米直の祖でそれ以降も大伴氏に従属して朝廷の軍事を担当することになるが彼ら一族は久米島出身の人達であったと見ている。久米島とサンゴ礁のハテの浜 朝鮮半島にたどり着く前倭国が中国の上海と台湾の中間、浙江省温州市周辺に住みついていた時期が長かった。この時東にあった沖縄の地... ...続きを見る

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2014/01/26 15:27
卑弥呼の殉葬墓が見つかった・・・箸墓古墳ではなかった
邪馬台国論争で大和にある箸墓古墳が卑弥呼の墳墓ではないかと推定している研究者や古代史ファンが多いが私の推定通り伽耶の国に現存していた。金官伽耶の近くにあるとの思いは間違いで大伽耶の国、伽耶山の麓「高霊」の地にありました。高霊にある池山洞には主山という山がありその尾根筋には巨大な池山洞古墳群が並んでいる。古墳の発掘が何ケ所かで行われNo.32号墳では天井などからハスの花の壁画が発見され6世紀には仏教が入ってきたことが分かっています。直ぐ近くにある有名な「海印寺」との関係も何かありそうです。そのNo... ...続きを見る

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2014/01/20 18:30
倭国と倭王
倭国がどこにあったのか、倭国王はどこに住んでいたか、倭人はどんな風俗・習慣をもっていたかなど倭国に関する情報を魏志倭人伝から抜粋して簡潔にまとめました。魏と交流したのは半島に存在した倭本体で、出雲や大和の国との交渉はほとんどありません。 倭国の位置倭人は、帯方郡(現ソウルの付近)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり、現在では魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である。 ...続きを見る

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2014/01/17 23:13
ウカヤフキアエズの陵墓発見
日本書紀に神武の父ウカヤフキアエズ命は西州の宮で亡くなられ、日向の「吾平(あひら)の上陵」に葬ったと記録されている。これをヒントに南九州各地に「吾平の上陵」が出現している。鹿児島県鹿屋市、宮崎県高千穂町、日南市鵜戸神宮などなど。明治政府も困ってしまい鹿児島県を認定したり右往左往していたようである。フキアエズが関係していない所に葬られるわけはない。伊都国の領域内にきっとあるはずとの考えで選定していたところ神武王朝墓から遠く離れた所にある伊都国最大の前方後円墳である一貴山銚子塚古墳(国指定史跡)がそ... ...続きを見る

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2014/01/12 19:34
神武王朝の痕跡-神武の墳墓発見
神武が天孫降臨した伊都国を調査して営んだ王宮や彼の墳墓、それから続いた神武王朝の9代の姿を追跡調査して記紀に記載されていることがほぼ事実であることを確認した。地名や人名は大和の事のように書き換えてあるが、起きた事件やその後の推移は納得するものであった。神武王朝は博多湾の西、現在の糸島半島(旧志摩郡)とその東平坦な旧怡土郡を中心に営まれたものと考えられる。記紀の解説では水流の激しい玄界灘を横断して二丈町側から着岸したようです。 ロケーションとしては周囲を山並みで囲まれていて博多平野に存在した先... ...続きを見る

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2014/01/12 12:05
知将と愚将
新年に当って本を呼んだり、映画をみたりして感じたこと・・・・世の中を動かすのはそれなりの背景があってできること。 八甲田山の軍人の大量死の無責任なトップ、秀吉軍から国を守った知将李舜臣、織田家の相続をめぐる清須会談の秀吉の行動などを見ながら、縦割り社会に閉じこもってしまい了見の狭い政治家や役人の姿にいらいらするのみである。 ...続きを見る

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2014/01/08 13:00
海彦・山彦…竜宮城はどこにあったか
海彦・山彦兄弟の2人は浜辺で育っていく。兄ホノスソリは海の幸を得る力、弟ホホデミは山の幸が強かった。2人の幸を取り替えてみようということになって事件が発生する。この調査の過程で竜宮城がどこにあったか、神武らが子ども時代をどこで送っていたかが明らかになってきた。神話とその舞台が結びついて興奮しています。山彦が釣り針を失くしてしまう ...続きを見る

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2013/12/27 21:51
ニニギの天孫降臨は捏造
天照大神の期待を担って天孫降臨の栄誉を果たすべく誕生したニニギはそのような男には育てられなかった。そして大した実績も残さず若い年齢で逝去してしまい対馬から出ていなかった可能性が高い。ニニギの生活空間 対馬は北の上島と南の下島に分かれる、実際にはつながっていて独立した島にはなっていない。この真ん中にあるのが浅茅湾で八十万神に登場する有名な神の活躍の場面はこの周辺が最も多い。 ...続きを見る

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2013/12/27 17:58
秋津州(あきつしま)はどこか
神武天皇は橿原の宮にご即位なさった。この年を天皇元年に定めた。論功行賞を行った後の神武31年夏ご巡幸を行った。丘の上に登られて国の形を望見して次のように言われた。 「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど「トンボ(あきつ)」がトナメ(交尾)しているように山々が連なり囲んでいる国だなあ!」 ...続きを見る

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2013/12/23 23:46
倭国はどこにあったのか
魏志倭人伝にきちんと書いてあるのに日本人は何故勝手な解釈をやっているのか。重要なポイントはきちんと説明されているのに・・・・不思議な事である。倭人が住んでいる場所と倭国への行き方について倭人伝を読んでみる。 ...続きを見る

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2013/12/19 21:20
天孫は神武・・・神武朝は伊都国
神武天皇はどのような存在だったのか全く雲をつかむような話が多いので架空の天皇、それに続く8代も神話の世界のことと見做してしまうのが現在の常識になってしまっている。 しかし丁寧に掘り下げていくとかなりリアルにその所在が浮かび上がってきている。彼らの育った場所は対馬と壱岐であり活動舞台は糸島半島の伊都国であった。神武王朝が9代ここで日本最初の国家を倭国からの指示にしたがって行った場所である。天孫降臨から神武東征の話を簡単に紹介すると次のような内容です。 @ ニニギの天孫降臨 アマテラス大神の孫... ...続きを見る

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2013/12/18 17:57
上総国分尼寺が美しくなった
久しぶりに上総国分尼寺を訪れて古代建築の素晴らしさを改めて知ることができた。建築してから時間が経過しあちこちが劣化してきたので市が改修工事を実施し建築時の姿に復元できている。是非見てやってください。南西側から写した国分尼寺、奈良時代、全国に多数あった尼寺の中で日本一の規模だったことが判明しているという。塗料を塗り直したため色のコントラストがすばらしい。赤と白と緑がベースで見ていて心が落ち着いてくる。上総の地は私など他県からきた人にとって驚く、全く石ころがない土地である。土台を作ったり柱の基礎を作... ...続きを見る

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2013/12/12 13:25
邪馬台国は外国にあった・・魏使の錯覚
邪馬台国は21世紀 未だにどこにあったのか分かっていない。日本の記紀には何も載っていないし八百万の神々の中にも卑弥呼はいない。中国の魏志倭人伝にあれだけ書かれているのになぜか? 魏志倭人伝をじっくり読んで、邪馬台国を確定することに成功しました。同時に何故、この事実が矛盾点として発見されなかったかが不思議でした。問題を複雑にしたのは魏の訪問者の思い込みによる錯覚でした。朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル付近)に駐在していた魏の役人数人が船乗りと倭国を訪問した旅行内容を記録したものが魏志倭人伝にまとめ... ...続きを見る

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2013/12/10 09:57
天孫降臨の地は宮崎では無かった
日本武尊の父親景行天皇の九州一円の遠征内容を調べている内に熊襲との戦いが大きなウェイトを占めていることが分かってきた。熊襲は日向から大隅半島にかけて先住していた人たちである。日向の地には有力者が存在していたようで西都原には3世紀の初めから古墳が認められている。本当の地は糸島半島の伊都国が天武王朝の所在地であった。 平原歴史公園がある場所付近が伊都国の中心部分 ...続きを見る

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2013/12/02 21:42
巨大古墳はなぜ大和でなく河内にできたか
ピラミッドにも匹敵するような大建造物が大阪の河内に出現したのはなぜか?ヤマトの国の中心は奈良にあるのに大型前方後円墳がここに突如として表れしかも何代もが連続して作られている。その背景について推理してみる。   日本最大の古墳全長486メートルの「大山古墳」 大型古墳の集積地は初期には大和・柳本古墳群、奈良北部の佐紀盾列(たてなみ)古墳群と奈良を中心に墳墓が形成されてきたがある時から大阪河内の古市・百舌鳥古墳群に移りここに巨大な古墳がたくさん作られることになっていった。 ...続きを見る

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2013/11/21 21:56
中国人と日本人の考え方の差
中国は儒教社会である。安全保障を優先し、有能な人材を科挙によって選び出して安定した政府の基政策を実行する社会である。これに対して日本は能力あるリーダーを嫌い合議で政策を推進する。難問に対しては武力で解決しようとするのでムラ社会の原理のまま、宗教や哲学の地位が低いままになっている。これが他民族との交流を阻んでいる原因である。 ...続きを見る

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2013/11/15 20:51
内にこもり易い日本人・・・相手の考えが分からない
日本の外交や交渉事が下手である・・相手の気持ちが分からずに近隣各国と仲良く付き合うことができない。 どうしてか?宗教学者である橋爪大三郎さんは日本の宗教教育に問題があると指摘されています。こういう状態でグローバル世界に飛び出していくのは非常に危険だと。 ...続きを見る

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2013/11/15 13:28
天孫降臨はなぜ宮崎と誤ったか
天孫降臨は葦原の中心、大和でなく宮崎西都原に降りたのか? 疑問に思う人が多い。降臨神話にも書いてあるがこの地を選んで案内してきた人は猿田彦である。彼の言葉によると九州の博多に近い一帯は既にたくさんの国(村落)ができて過密状態であった。それから更に南に下った久留米の辺には倭族の先発隊、卑弥呼女王を擁する邪馬台国ができていた。そこで選んだのが太平洋側にある住みやすい場所だった。後の調査で宮崎の地は明治政府が決めたもので実際は九州福岡県であることが正しいと分かりました。 http://gan205.... ...続きを見る

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2013/11/14 21:56
出雲の国はどこに消えたか
出雲の国が天津族の管理下に置かれ国力が衰退していったことはその後の流れで分かってきている。ではオオクニヌシを初め主力はどこにいったのか?・・・・私の調査では大和の国の国土開発にはほとんど参加せず大伽耶国(朝鮮半島の倭国)に戻っていった。そして新羅や高句麗との争いに積極的に関与して「倭の五王」と称する国力発展の基礎を作ったのである。 ...続きを見る

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2013/11/09 11:58
応神天皇の東征と秦氏の来日
応神天皇の東征は3人の神の最後を受け持ち大和朝廷の実質的な土台を作ったものと考えられる。応神天皇が大和に乗り込む事情と時期について考察を試みた。秦氏が東征のキッカケを作り、東征の時期は370年代中ごろと考えられる。 ...続きを見る

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2013/11/02 23:09
ヤマトタケルの国土統一
ヤマトタケルが日本国中飛び歩いて賊を退治していった話は神話に登場しているし私の住む房総半島にも言い伝えとして遠征ルートが残されている。しかし歴史上の位置付けはさっぱり分からなかった。多くの人の調査結果から推定して段々正確なことが分かるようになってきている。日本書紀の解明に挑んでいただいている崎元正教氏の「日本建国史」の解説によるとヤマトタケルは武内宿祢の若き日の姿であり同一人物であると見破っています。 ...続きを見る

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2013/11/02 11:55
最後のイタコ
6月青森県の恐山を旅行して実際を見ると恐ろしいことは何もなかった。新書案内に最後のイタコと呼ばれている人の紹介が載っていた。イタコの過去と現在、どんなことをしているのかがよく分かって参考になりました。 ...続きを見る

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2013/10/28 18:26
稲むらの火と高台移住
津波などの災害は50年、100年と時間が経って忘れたころやってくる。また兆候を感じてもほかの事に夢中になっているとその深刻さは分からない。参考になる過去の事例を紹介します。 ...続きを見る

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2013/10/26 17:32
戸隠神社奥社参拝
戸隠神社奥社に10年行ってなかったので八ヶ岳から長野経由飯綱高原を通って戸隠植物園の方角から奥社を目指して歩きました。 ...続きを見る

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2013/10/25 22:48
旧石器の宝庫野辺山
野辺山の地に宿泊することに決め周辺を探索しました。中で最も印象的なことは南牧村の資料館で見た旧石器などが現地住民によって発掘・収集され整備保存されていたことです。戦後入植した開拓民の苦労や今は高原野菜の生産地に変わって頑張っている姿など多くの情報があって楽しかった。 ...続きを見る

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2013/10/25 06:51
三人の男が作った日本国
日本は偉大なリーダー3人、神武・崇神・応神の継投によって作り上げられたすごい国家であることが分かってきました。無宗教に近い中国や韓国に比べ日本人は昔から宗教心を厚く持つ慈悲深い人間の集団だったようです。一般の国家と違うのは王が直接軍事を行わないこと。倭国内部で天皇家を支え、新羅や百済など外部勢力の干渉は無く続いてきました。 ...続きを見る

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2013/10/14 19:44
ついに発見神武天皇の正体
神々の整理をしていて結論に至ったのは神武天皇は実際に存在したことである。天照大神が「葦原の中つ国を統治するのはニニギ、お前だ」と命令して金官伽耶の王宮から孫を送り出した。これが天孫降臨という言葉で伝えられている。降臨した人は大体その国の開祖になっているのが普通。ニニギはなぜ無視されているのか?日本書紀はニニギが簡単に天孫降臨ができたように書いてあるがこれは操作した話で実際は対馬で子どもを作っただけで早死してしまった。対馬で子孫が天孫として生活をしていてニニギのひ孫である神武が九州の糸島・前原に最... ...続きを見る

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2013/10/12 06:22
八百万の神とは何か・・・天照神は男性だった
神々の系譜と称する八百万の神の資料を見ていて気が付いたこと・・これは中国から朝鮮半島に渡ってきた倭国のリーダーたちの名前とその子孫ではないか! もう一つそのトップは首露王であるのに表では統率者が不明であること。突っ込んで探せば天照大神に突き当たるが今までの常識では女性と考えられてきた・・・何故か? ...続きを見る

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2013/10/11 23:23
蘇我氏の祖はスサノオ
オオクニヌシは国譲りをする代わりに天津神の子孫が住むと同等な住み家を要求し大きな出雲大社を作らせた。主祭神は当然の事ながらオオクニヌシである。ここではスサノオは本殿真裏の小さな摂社に祀られているのみ。しかしこの社は「ソガの社」と呼ばれている。出雲王国の出身は大伽耶であるが葦原の国ではソガに行き当たる。 ...続きを見る

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2013/10/10 08:21
倭の奴国所在地
日本列島の倭の国から中国に最初に通じた国は奴国であった。AD57年のこと。どこにあってどのような国であったか? ...続きを見る

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2013/10/07 14:30
中国文献に現れた倭国・・・どこにあった国か
中国の歴史書で倭国・倭人が載っていると全て日本の事だと解釈している人が多い。内容を吟味すれば伽耶か九州か大和のことか明瞭になってくる。文献をチェックしながら一般の解釈と異なると思う所を書きました。 ...続きを見る

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2013/10/04 23:10
日本=百済説の誤り・・・・日本書紀に騙された
金容雲氏の書「日本=百済説」を紹介したがこれは全く誤った説であることがはっきりしてきたのでここに何故かを説明します。昨年4月これを読んだときはこのような見方があるのは新しい視点で新鮮であったが最近深く考えた時におかしいことに気付いた。 ...続きを見る

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2013/10/04 11:30
モースの見た明治初期の日本・・・・子どもは世界一幸せな国
江戸東京博物館で開かれている「明治のこころ」を見てきました。列車から見て大森貝塚を発見したモースが東京帝大の先生としてやってきた。たった4年間の滞在であったが日本の異文化に接触してあらゆるものに興味を持ち、散歩や旅行を重ねた。当時の写真や収集物、膨大なスケッチや文章がアメリカから里帰りして展示されている。 ...続きを見る

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2013/10/01 23:48
金官伽耶王国
倭国の本体が存在した金官伽耶国の周辺の古墳群を調査し、発掘された代表的な品物を並べてみます。1992年に開かれた「伽耶展」の資料から作ったものです。 ...続きを見る

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2013/10/01 21:23
スサノオの故郷ー釜山の辺
1992年に「伽耶文化展」が東京国立博物館で開催された。その時の資料から伽耶に関することを丹念に読み取りスサノオの出身地を解明しました。その地は「伽耶山」をバックに控えた高霊の地、大伽耶王国が出身母体であった。しかしスサノオが天の国から追い出されて日本にやってきた時代にはまだ釜山近辺に留まっていたと考えられる。         これは高霊の地から出土した王冠で韓国の国宝に指定されている豪華なものである ...続きを見る

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2013/09/25 14:23
日本が世界に誇る水月湖の年縞 
過去の気候の変化や災害など木の年輪や極地の氷コアを調査することで一部解明されてきた。2012年日本の福井県にある水月湖の湖底に堆積している土の層が「地質学的年代決定」の世界標準になった。これは素晴らしいことで苦労して研究してきた関係者に感謝したい。 ...続きを見る

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2013/09/23 15:35
日本への仏教の導入・・神国なのになぜか
倭人は神道をその国家の最大な宗教と自認してきているのに何故仏教を取り入れようとしてきたのか。 仏教の導入を巡って蘇我氏と物部氏の間で大論争が起こり蘇我氏が仏教を認め広めることに成功した。 ...続きを見る

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2013/09/09 23:07
神話の真実 -天照神は日本にはいなかった
記紀には神話として重要な内容が語られているが受け取る私たちがその背景が分からないために理解できなかった部分がある。2つの解説を試みる。天孫降臨と国譲り神話である。 ...続きを見る

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2013/09/07 10:24
日本書紀のウソ
日本書紀は日本人を完全に騙し、今もだまし続けている。日本書紀は天武天皇の命を受けて舎人親王らが720年に完成した歴史書であるとされてきた。歴史作家の関裕二氏が「藤原氏の正体―名門一族の知られざる闇」(東京書籍)で明らかにしているように実質的な編集者は藤原不比等であって彼の都合の良いように作り込んだ書物であることが分かっている。何を隠し何を主張しようとしたのかを考えてまとめてみました。 ...続きを見る

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2013/09/02 23:42
日本の古代史を見直す・・矛盾点の氷解
今年の8月は猛暑が続き大変な毎日でした。何とか乗り切ってきましたが私の頭にある日本古代史を何とかすっきりさせたいものとブログで取り上げてきました。ようやく準備が整い先が見えてきました。歴史学界や日本の古代史をテーマに著作の多いジャーナリストには絶対賛成してもらえない意見です。 ...続きを見る

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2013/08/31 22:23
倭国から日本列島への移民
倭国の中心は金官伽耶国で(釜山)ここに交易港を開設して諸外国との貿易を行ってきた。特に日本列島との密接な交流は盛んで「対馬−壱岐−博多(志賀島)」のメインルートと沖ノ島経由玄界灘の荒海を渡って宗像に至る海の安全祈願の2ルートを持っていたと思われる。後者は宗像神社と一対の「信仰ルート」と考えられ主ルートは対馬経由と思われる。 ...続きを見る

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2013/08/31 08:13
新羅は倭人が作った・・・倭人は賢者
朝鮮の歴史書を読むと倭人のすばらしさが色々なところで述べられている。新羅の国づくりもそれをやったのは倭人であったという。 ...続きを見る

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2013/08/30 06:52
ビルマの竪琴
終戦記念日にあたって竹山道雄「ビルマの竪琴」を昭和34年発行の文庫本で読む。文字が小さくて困ったが読んでみて戦争について知るには大変良い本だなあと感じた。 学校の音楽の先生が入隊し、その軍隊はどこに行くのにも歌声が伴っていた。その指揮が水島上等兵である。戦場はビルマ(現ミヤンマー)の山の中、戦争末期が舞台でイギリス兵やグルカ兵、インド兵が相手だった。 ...続きを見る

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2013/08/16 23:28
日本が戦争を止められなかった理由
エリート教育を受けた日本の軍部、大本営が戦争を押し進め真珠湾から敗戦までまっしぐらに進んでしまった。 途中で戦争を止めるような機運が無かったのかどうか疑問だった。 吉村昭さんの晩年の小説「白い道」を読んでいて「歴史は押しとどめられない」を読んで納得しました。 ...続きを見る

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2013/08/15 13:50
倭国の全盛時代を築いた五王
倭王の活躍を伝える中国の資料に413年に始まる倭王「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」の五王の使節が南朝の宋に朝貢していたことが「宋書」に記録されている。日本の天皇に当てはめて大和から派遣されたと解釈されているがこれは無理筋であろう。 ...続きを見る

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2013/08/12 17:10
朝鮮半島の倭人
倭国、倭人とは日本人と同意語と考えている人が多い。しかし時代によって全く違う様相を呈していたことが私には段々分かってきた。日本の朝廷は百済と密接な関係を保ってきたのは何故か疑問な点がたくさんあった。新しい倭国と日本の関係について考えてみたい。 ...続きを見る

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2013/08/10 11:17
豊かな縄文時代の食生活ー千葉の海
加曾利貝塚を国の特別史跡にしようと千葉市が進めている事業の一環として調査・研究が行われて新しい見方が出てきた。貝塚は食べかすの捨て場だったという見方がひっくり返りこの地域の食生活の豊かさが改めて浮き上がってきている。 ...続きを見る

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2013/08/04 11:48
なぜ魏志倭人伝にこだわるか
日本の歴史に関してたくさんの本が出版されて色々な事が話題になっているがどうしてガラパゴス現象のようにみんな同じ方向しか見ないのであろうか?次々に出ている本をまな板に載せて私の意見をまとめてみたいと思う。やや専門的な話が多くなるが・・・ ...続きを見る

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2013/08/02 09:01
伊勢神宮式年遷宮の準備
三重放送が編集した神社の遷宮の準備、特に宮大工などの裏方の準備状況などの話がとっても面白くて見入ってしまった。20年毎に社殿を更新して神さまを常に若く保つことと神殿を作り替える技術を後世に伝えていくことに目的がある。 ...続きを見る

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2013/07/24 22:42
江戸の職業
子どもに将来の職業を聞いたアンケートが出ていた。人気は野球やサッカーのプロ、博士や医者などでTVに出て映ったり、話題にらないとだめ。昭和時代までのように実際に働いている人の姿が見えなくなっているので夢がでなくなってしまっているのではないか。江戸時代の職業特集に出ていた内容は面白かった。 ...続きを見る

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2013/07/13 21:41
納豆の発祥の地は秋田
先日東北の旅行をしたとき素晴らしいバスガイドに巡り合ってとっても楽しい旅行ができました。その話題の一つが納豆が生まれた経緯。 ...続きを見る

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2013/07/11 22:21
怖がらなくてもよい恐山
6月20日念願の恐山を訪問、良く知ることができ納得しました。恐山はまず「イタコ」の話が先行して大変恐ろしい霊場の感覚を皆さんに植え付けてきたが今回体験してみて理解でき、今度の旅行の最大の収穫になった。 恐山はどこにあるか? むつ市の西方にそびえる山の上にあった。 大きな火山の山で噴火口は大きな湖、宇曾利湖になって水を貯えている。水は酸性が強くほとんどの魚が生息できない。その周囲には八の外輪山が並んでいる。釜臥山、大尽山、小尽山、剣の山、屏風山、地蔵山と鶏頭山である。これを総称する山の名前は... ...続きを見る

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2013/06/24 12:46
アイスマンの記録
NHKで放映されたアイスマン、5000年前の科学的な生体解剖の結果が報告されて私達現代人に衝撃的なインパクトを与えた。もう一度見直してここにその要約を文章にして残しておきたい。 ...続きを見る

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2013/06/07 06:15
アメリカの中学生に勇気を与えたジョン万次郎
米国の児童文学作家マギー・プロイスさんが姉妹都市の千葉県いすみ市を訪問して小中学校で講演「日米交流の原点を作った万次郎のことをもっと知ってほしい」と呼びかけている。 ...続きを見る

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2013/05/18 22:55
房総半島の仏像たち
4月平山薬師(東光院)を参拝した折、伝七仏薬師如来像七体は30年ごとの御開帳で今年がその年に当たるという。4月から千葉市美術館で見ることができるので他のたくさんの仏像と一緒に見に行ってきた。この地の豪族千葉氏が残した文化財の威力には強いものがあった。 千葉県全域から集まった仏像のオンパレードで、各寺院のご本尊が集まっているので豪華絢爛たるものでした。 平安時代後期千葉市東光院に伝わる「伝七仏薬師如来像」である。この写真では小さい像のように見えるが実際はすごく大きな仏像で金色に輝くすばらしいも... ...続きを見る

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2013/05/03 21:03
人類の歴史
国立科学博物館で開催されている「グレートジャーニー人類の旅」は表題のテーマを取り扱っているものと期待して見に行ったのですが内容は全く違いました。一部そのような展示もありましたが大半は現在熱帯雨林・高地・極北・乾燥地帯など極地に住む人がどんな暮らしをしているか紹介する内容でした。 ...続きを見る

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2013/04/14 19:48
女性天皇についての考察
数年前皇室に皇位継承の男子がいなかった時、表題の議論が盛んだった。今瞬間的には納まっているが、日本が誇ってきた万世一系の天皇とは何かを考えてみた。皇室の継承とは皇室特有のY系遺伝子を後世に残して行くことに意味があるのであってこれを持たない女性に皇室を継承していくのは問題があると思う。 ...続きを見る

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2013/04/06 21:26
日本は多様民族の国
最近のDNA分析で分かってきたこと。人類の歴史700万年とする中で今の人類ホモサピエンスが出てきたのは15〜20万年前のごく最近のこと。原人類はアフリカに生まれ、その内の約1万人が世界に向かって拡散していきできたのが現在の社会であることが明らかになってきた。 ...続きを見る

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2013/04/05 13:29
錆びない古代鉄と画期的なカミソリ
法隆寺で使っていたくぎは1000年経っても錆びなかったし今後も大丈夫だという。今の鉄は錆びるのが宿命みたいな存在である。今のカミソリの刃の進歩には素晴らしいものがあった。5枚刃は切れ味、寿命とも抜群で高価であっても買ってしまう。 ...続きを見る

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2013/03/30 13:05
上野公園の桜と円空仏展
家を早めに出て会議の前に上野の国立博物館の円空展を見学してきました。今年の桜の開花が意外に早くもう咲きだして動物園の前は小さな子供たちで賑わっていました。円空の彫刻仏像展はこじんまりとした展示の中ほのぼのとする感じを抱いて見学できました。 江戸時代(1600年代)飛騨高山近くに生まれた僧侶。寺に住まないで東日本を中心に旅を続け修行しながら出合った人々の願いを成就するためにたくさんの仏像を作った。生涯12万体を作ったといわれ今でも5000体もの像が伝わっている。 ...続きを見る

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2013/03/20 15:11
ストーンサークルの由来
日本には各所にストーンサークルと呼ばれる石を配置した古代からの遺跡がある。太陽信仰と結びついた縄文からの宗教の残像ではないかと考えていたがそれと同じものがイスラエルや中東諸国で多数見つかっているという。 ...続きを見る

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2013/03/18 23:46
遺伝子で探る民族移動
人類の遺伝子情報が分かってきて過去の人類がどのように地球を移動してきたかが分かるようになってきている。 「DNAでたどる日本人10万年の旅」 谷崎満 (昭和堂)の著書では日本民族の由来を考えるうえでも参考になることが満杯である。アジアの中でも中韓とは違った民族であることがはっきりした。 ...続きを見る

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2013/03/10 17:34
早春の散歩「平山薬師」
3月早々クラブのウォーキングに参加して千葉市平山町にある東光院平山薬師寺まで行ってきました。梅の花が各地で咲きだしていてとっても楽しいひと時を過ごすことができました。 このお寺は弘法大師が開いた真言宗の豊山派に属して千年以上の歴史を有する古刹でご本尊は平安時代に作られた七仏薬師瑠璃如来である。大きな薬師を中心にして両側に3体づつを配置する7像で33年に1回の御開帳であるという。今年がそれに当たり4月から千葉市美術館で見ることができる。薬師は古くから大医王といわれ左手に薬壺を持ち私たちの健康と安... ...続きを見る

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2013/03/03 23:14
日本の海賊
世界各地には今でも海賊が出没して積荷を奪い取る事件が発生しているが日本でも昔は瀬戸内海を中心に活発な活動を展開していた。 ...続きを見る

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2013/02/21 11:54
ちはら台発掘物語
千葉市と市原市にまたがる村田川が流れる地、ゴルフ場の本千葉カントリーがある周辺ですが大規模な宅地開発のため発掘調査が行われてきた。昭和50年代から始まり昨年終了しその成果をまとめたものが県立中央博物館で「時空を超えて」のタイトルで展示されている。                       縄文時代の土器 約87ヘクタール、12の遺跡が調査対象となり旧石器時代から連綿とここで生活が営まれていた。発見された竪穴住居跡は約4千軒、古墳は約170基にも及んでいて大規模な集落が広がっていることが分か... ...続きを見る

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2013/02/09 21:43
出雲王国の歴史
時代は紀元1〜2世紀に渡って出雲を中心に存在した王国である。日本の記紀神話に登場する話は後に栄華を極める藤原不比等が都合の良いように書き改めたものであることが分かってきている。各神社の神事や祭りの神楽や宮司の言い伝えに敗者が辿った事実が記録されている。王国の実態は要約すると次のようなものだった。 ...続きを見る

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2013/02/07 23:35
銅鏡は何故日本で偏重されるか
魏から卑弥呼に送られた銅鏡100枚がどこに行ったか話題になっているが日本ほど銅鏡に執着している国は無いようである。中国で作られた鏡も中国内では余り見つからず逆に日本では中国からの物、日本で作ったものなどどこを調べてもたくさん出てくる。また神社や皇室の祭器、宝物として尊ばれるのは鏡である。 ...続きを見る

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2013/02/04 15:21
越のヒスイと出雲王国
梅原猛先生が「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解く」を極最近出版された。先生は40年前「神々の流竄(るざん)」の本の中で出雲神話はフィクションであるとの立場を取り、戦後の歴史学会をリードされた津田左右吉と同じ立場をとってきた。たくさんの発掘品の発見と記紀の神話がつながっていることが分かってきて出雲王国の実在を明らかにし、出版されたのがこの本で出雲の国の各神社でお詫びの旅を重ねてきたという。 ...続きを見る

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2013/02/03 23:42
いすみの掛軸や屏風
田園の美術館で暮れから新年にかけて特別展「和のしつらひ」を開催してきました。日本家屋では床の間の掛軸や生け花、屏風などの備品を変化させることで季節感や気分を変えて心豊かに暮らしてきました。これら夷隅に残る文化財を展示しています。 ...続きを見る

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2013/01/14 00:07
アレキサンダーの偉業
正月は570頁にも及ぶ「獅子王アレキサンドロス」阿刀田高著(講談社)を読んだ。時代は2,300年も前の事だったが、たったの10年間でギリシャからインドに至るまでの大国家を作り上げた彼の行動を学んだ。英語名はアレキサンダー、ギリシャ語ではアレキサンドロスと呼ばれる。在位BC336-323 ...続きを見る

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2013/01/07 11:03
400年前の大津波と伊達政宗の対応
戦国時代がようやく終わろうとしていた1611年東北地方に大津波が押し寄せた。江戸幕府が成立した直後のことである。慶長大地震と呼ばれている。仙台藩の伊達政宗はこの事件を幕府に知らせるとともにその復興に当たった。 ...続きを見る

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2013/01/05 20:10
伽耶とは?お粗末な日本歴史学会
約20年前に出版された「幻の伽耶と古代日本」 − ここまで分かった日韓古代史:文春文庫を本棚から引っ張り出して読み直した。そうそうたる学者、江上波夫、大塚初重、奥野正男、武光 誠など日本史学会では有名な人達が書いていた本である。今でもこの説が正しいと考えているのだろうか? ...続きを見る

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2012/11/12 20:01
御宿の遭難碑から太平洋を見る
10月中旬からこのブログ編纂機能がマヒしてしまって長らく休止状態が続いていました。ようやく修理が済んだようなのでまた再開します。 ...続きを見る

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2012/11/05 23:26
安曇野を豊かな耕地に開発 - 堰網の構築
今では考えられないような貧しい土地・・・・それが安曇野だった。山から流下する大量の水もあっという間に砂地に吸収されてしまうので土地はからからに乾き植物が育てられなかった。どうやって豊かな土地に仕上げたか。長時間に渡る先人たちのアイデアと努力の積み重ねがあったことを知った。 ...続きを見る

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2012/10/24 21:39
安曇族と安曇野の開発
安曇族は海を舞台に活動した集団、倭国(伽耶系)の中心をなす部族だった。それなのになぜ山深い信濃の地に進出してきたのか。また泉小太郎伝説による安曇野の開発はあったのか? これらの疑問をテーマにして穂高神社にある安曇族の資料を見てきた。 ...続きを見る

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2012/10/23 22:25
ヒスイの発見
日本のヒスイには面白い話が詰まっている。世界でヒスイが使われていたのは比較的新しくて日本のように7000年も前から使われたのは珍しい。縄文や弥生の古墳からは発見されるがそれ以降、奈良時代東大寺の観音像に使われた以降バッタリ社会から消えてしまった。仏教の影響があったのではないかとも言われている。 ...続きを見る

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2012/10/20 09:41
諏訪大社神長官の守矢氏
今回神長官を務める守矢家の資料館を訪問してきた。大祝と神長官の分担の意味合いが分かりました。モリヤとはユダヤの言葉でエレサレムの地を指すという。漏矢、守矢、守谷等漢字の当て字は複数あるが生贄神事といいユダヤ教の心をなす行事が多い。そこに後から薙鎌神事を持った諏訪大社が乗り込んで行った姿が浮かんでくる。                        祈祷殿 諏訪大社の成り立ち 複雑な事情が絡み合っていて理解するのに苦労する。出雲の大国主の次男建御名方が戦いに敗れ(国譲り神話)日本海から糸魚川... ...続きを見る

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2012/10/17 16:39
尖石縄文考古館を訪れて
尖石遺跡のある場所 長野県茅野市八ヶ岳山麓に広がる高度約1000mの台地に広がる地域に点在する縄文遺跡です。この与助尾根遺跡は昭和20年代宮坂英弐氏が独力で発掘を続けて縄文集落跡を明らかにしたものです。考古館では発掘品の展示だけでなく、縄文人が着ていた布を紡いで衣服を作ったり、粘土で壺を焼いたりする教室が開かれている。 ...続きを見る

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2012/10/17 16:13
浮かんできたきた日本皇室の歴史
日本人の学者が内側から研究しても限界がある日本の歴史。一歩外から韓国の学者やユダヤのラビの調査の結果などから色々な事実がそろってきた。外からの流れをまとめたものが無いのでトライしてみた。 ...続きを見る

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2012/09/21 23:02
ダライ・ラマが学んでいること
ラビのマーヴィン・トケイヤーが語ったこと。国を失い離散した民族は新たな土地に移り住みそこの住民、そこの国民として同化してしまう。ユダヤ人はどこに移り住もうが民族のアイデンティティーは失わなかった。ダライ・ラマはそれを学んでチベット仏教の復活を目論んでいる。 ...続きを見る

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2012/09/09 22:43
群馬の多胡碑と稲荷神社
群馬県多野郡吉井町に全国的に有名な多胡碑が立っている。古くは多胡郡と呼ばれた場所である。この碑は711年設立で、奈良から遠く離れたこの地に何でこんな碑があるのかと注目されてきたがうまく説明することができなかった。景教と秦氏の関係から説明する次の話は筋が通っていて納得できるものであると思う。 ...続きを見る

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2012/09/03 13:45
秦氏の来日と日本での活動
秦氏がシルクロード天山山脈の北、バルハシ湖近くにあった「弓月国」からやってきたいきさつや神社創設や機織りなど高度な技術をもたらした業績についてまとめてみました。 ...続きを見る

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2012/09/02 11:00
仏教と景教(古代基督教)
神社とユダヤ人の関係を調べていく内にキリスト教と仏教など宗教がお互いに影響し合ってその内容が時代とともに大きく変化していることが分かってきた。 ...続きを見る

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2012/09/01 23:17
永遠に無くならない宗教戦争/十字軍の例
各地で紛争がくりかえされているが千年以上続いているのが一神教を奉ずるキリスト教とイスラムの激突である。200年に渡って戦われた「十字軍遠征」は一体何だったのか塩野七生さんの「十字軍物語」、絵と地図と簡単な説明で綴る本から考えてみた。 ...続きを見る

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2012/08/17 00:02
天狗とは誰で何をしていたの?
南足柄の天狗伝説の里をめぐって道了尊が天狗だったことを知ったがもう少し調べてみた。なるほどと思われる見解が出てきたので私の意見を入れて推理してみた。 ...続きを見る

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2012/07/26 22:17
足柄山の天狗たち
南足柄市にある曹洞宗の格式高い古刹、大雄山最乗寺を訪問した。30年前の天狗と山中に広がる大伽藍の印象が強く残り場所を決めた。今回のテーマは曹洞宗なのに何故天狗が大活躍をしているのか? ...続きを見る

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2012/07/21 11:20
神道とユダヤ教の類似性/駐日大使が語る
空手との出会いですっかり日本の武道に惚れ込んだ駐日イスラエル大使が見た日本。彼はユダヤ教の祭司の家に生まれ宗教には大変詳しい。神道の中にユダヤ教の要素が含まれていることをたくさん発見して両者の類似性・共通性を強調している。 ...続きを見る

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2012/07/10 10:25
中世の安房と鎌倉の関係
「渚の駅」たてやまが3月末にオープンします。その記念特別企画展が市立博物館分館で開催しているので見学と講演を聴きに行った。 ...続きを見る

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2012/03/24 15:59
大野晋氏の「日本語の源流」に異議あり
語学界の大御所大野晋さんが繰り返し述べていらっしゃる日本語の源流について「南インドのタミル語から日本語がつくられた」について疑問に思う。 ...続きを見る

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2012/02/08 13:47
神社とユダヤ人
日本とユダヤ人  運命の遺伝子  久保有政 失われたイスラエル10氏族と秦氏の謎 の本を読んで疑問点の一つの解答を得ました。 ...続きを見る

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2012/01/27 23:57
孔子の教え・・何千年経っても真理である
新聞を読んでいたら古い中国の思想家の言葉が2千年以上過ぎても我々に与える影響は変わっていないことを知った。物質的には豊かになったが頭や心はかえって貧しくなっているのではと思うことがたくさんある。 ...続きを見る

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2011/12/31 15:45
気候:地球の過去を見れば
このところ天候が激変して世界各地で大変なことが起きている。過去の地球上でどのようなことが起きていたか、東北大震災に匹敵するようなノアの箱船の話も語り継がれている。 ...続きを見る

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2011/12/03 16:01
倭国とは
「倭の正体」見える謎と、見えない事実   カンギルウン 比較言語学者を読んで ...続きを見る

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2011/11/21 00:04
明治の時代
明治神宮でのあれこれ。写真は表参道大きな鳥居の横にある表示版。今は公園などには看板に・・・をしてはいけませんと禁止事項のオンパレードである。ここ神宮の入り口横にある表示は屋根付きで堂々としている。書いてある文章。 ...続きを見る

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2011/10/05 14:14
近くの宅地から発掘された品を見る
私の住む近くに都市開発機構(UR)が開発した「ちはら台」住宅地がある。昭和50年代から開発が始まりその地で発掘された遺跡の中からたくさんの発掘物が見つかっている。作業は約10年前に終了し展示会があったのでコミュニティーセンターへ見に行った。 ...続きを見る

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2011/08/21 17:15
出羽三山と房総の関係
千葉県立中央博物館で「出羽三山と山伏」の企画展が開かれている。 ...続きを見る

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2011/07/16 23:00
建御名方神と姫川  
姫川の由来 白馬村から日本海に流れだしている川は姫川と呼ばれているが古文書では「奴奈川(ぬなかわ)」または「布川」と記され南北朝時代までは「ぬなかわ」であったらしい。このヒントから奴奈(玉)があったはずだということで70年ほど前に、大学の先生などが調査、探したところ小滝川でヒスイやメノーが見つかり全国に広がっていった産地だったことが分かった。ヒスイを加工した遺跡も見つかって、大きな話題になった。 ...続きを見る

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2011/06/28 23:22
日本外交はどうしたら良くなるか
今週は北方謙三の「史記(武帝紀)」第一、第二巻と井沢元彦「日本史の授業」を読んでいる。 ...続きを見る

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2011/05/06 22:27

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